実際、健康の定義を考える

今回は、健康の定義について考えました。

私たちの日常で、健康という言葉はよく使われます。

健康になりましょう、健康になりたい、健康増進、他にも本当にたくさんの’健康’にまつわる会話や言葉があります。

さて、では、この健康とは、一体何なのでしょうか?

これに対する答えは、多くの方の色んな見解、解釈があると思います。


私が先日、日課のウォーキングをしながらふと思ったこと。

これについて紐解きながら、日々生活する一個人としての健康の定義を考えたいと思います。


私の運動習慣はいくつかありますが、中でも身近なものの一つにウォーキングがあります。

運動が人に与える影響については、すでに説明するまでもなく、一般的に知られているかと思います。

先日も、自然豊かなお気に入りのウォーキングコースを歩きながら、ふと気づいたことがありました。

・・・'健康'を前に、人類は皆あすなろ。・・・


いつだって'健康'は人々の願いであったのではないか、と何故かふと心に浮かんだのでした。

私がウォーキングを高頻度にできるのは、何より、豊かな自然に触れる気持ちよさが楽しみだから、また、ウォーキングの途中で、このようにふと得られるインスピレーションが楽しみだから、歩き終わった後の適度な疲れが心地よいから、など、ウォーキング自体にいくつかメリットを見出しているからです。

運動が健康づくりに欠かせないのならば、やはり、健康は、手放しで手に入るものではないと。
個々人が'健康'であることには、個々人の努力が必要だと。
そう思ったのでした。

誤解を恐れずに書いてしまえば、
社会が成熟し、複雑化した中、人類が不健康で不幸になるのは、いとも容易いと感じます。

今、新型コロナウイルスの蔓延を除けば、死因の高い割合をNCDs(非感染性疾患)が占めています。

これは、俗に贅沢病とも呼ばれています。
また、経済には、誘惑によって駆り立てられる仕組みでマネタイズされる事実が散見され、いとも簡単にリピート、別の言い方をすれば依存してしまい、もはや、人の報酬系が危機にさらされている、と依存を研究している私からはそう見えます。

少し話を戻して、個人の努力を怠れば不健康になりやすい時代、そう言ってしまうと、大変で暗い感じに見受けられてしまうかと思うのですが、

だからといって嘆く必要はないと感じます。
どんなときにもいつだって目の前には悲観と楽観がセットで置いてあるものです。

では、改めて、健康とは何でしょうか?

WHO、世界保健機関によると、健康は以下のように定義されています。

「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」

WHOの定義する健康、これは本当に私たち一人一人の健康なのでしょうか?

私は、少し違和感を覚えています。

そして、大事なことは、このWHOの定義するパーフェクトな'健康'の状態になることではない、と思っています。


どんな状態であったとしても、個人の存在は許されます。
その中で大事なことは、今の自分の状態に気づくことこそにあると感じます。

個人が自分の健康状態に意識を向けること、それが、健康を目指す行動に導く第一歩であり、結果、自分を大切にしている実感と充実感を伴う行動のループとなると感じています。


健康であるとは、実際には、WHOの定義する'健康'になろうと意識し目指す中でうまれる、言い換えれば、よりよく生きよう、とする一瞬の気づきにともなう意志とそれに基づく行動と充実感。

それこそが、生き生きした個人の健康の定義の実態、そう感じます。


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