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学校って行かなくちゃいけないの??

10歳のYoutuber、少年革命家ゆたぼんが色々と賛否を巻き起こしています。

ぼくはこの子のYoutubeを見たことはないですが、たまたまTwitterで茂木健一郎氏のコメントを見かけて知りました。

炎上の理由は、ゆたぼんが学校に行かない理由や、「学校に行く必要なんかないんだ」という姿勢、それをYou Tubeでネタにしていることなど。そこから派生して、親御さんのプロフィールやキャラクターにまで炎上の矢は向いています。

ぼくは炎上を眺めるのがあまり好きではないので、じっくり眺めるようなことはありませんが茂木氏のツイートをたまたま目にしていろいろと考えさせられました。

ぼく個人としては、茂木氏のツイートにおおむね賛同しています。

・本人、保護者の話し合いの上で決めた選択であれば周りがとやかく言うことではない
・学ぶ方法は無限にある(茂木氏はホームエデュケーションを例にあげていました)
・学校で学ぶのが好きな子もいれば、そうでない子もいる。それは選択肢のひとつである

特別にゆたぼんを応援するわけではありませんが、教育の在り方を考えるいいきっかけになりそうだなと思います。

学校は行かなくちゃいけないのか?

法的な問題についてもあるでしょう。義務教育とは親が子どもに教育を受けさせる義務であり、その点においてゆたぼんは「好きな時に学校に通っている」ので学校に籍は置いており義務自体は果たしていることになります。

でも、法律的な問題点よりも子ども自身にとって学校がどのような場所であるのかという方が大切だよなって思います。

ぼくたちは法律を守るために生きているのではなく、法律がぼくたちの営みに規律と安心、安全をもたらしてくれるのだと思うからです。

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個人的な思い出としては、ぼくは学校に対しては辛く苦しい思いでしかありません。
ぼくにとっては自分自身のアイデンティティを崩壊させ、自己を否定され、心身ともに痛みを味わう場所でしかありませんでした。
でも、それじゃあ学校に行かなければよかったかと言えば、「通えてよかった」と思っています。

それは、「それだけ辛くても、やっぱり通ったらいいことや勉強になったこともたくさんあったから」ということではなく「逃げ切れてよかった」という安堵感です。

ぼくが子どもだった30年前。社会には「学校」以外の道はなく、そこから外れてしまったら一生引きずるような傷を、周りによって植え付けられること間違いなしの社会でした。
学校に通えない、ということは社会的落伍者であり、不適合者であり、普通の生き方はできないのだ、という目で溢れていました。
そうした周りの目って、小学生でもちゃんと感じます。哀れみの目、子どもの不幸を悲しむようで、実は自分自身(親・教師)の大変さを嘆くような目、ろくでもないものを眺めるような目。大人が口に出す言葉以上に、態度や空気が悠然と語ってくれました。

また、自分の親や親族もとても保守的なので、学校以外の有益な選択肢を見つけるどころか探すことすらできなかったのではないかと思うのです。

そう思うと、当時踏ん張って卒業まで逃げ切れて本当によかった。
でも、ぼくにとっての学校とはそれだけでしかありません。

30年経ったいまでも、まだまだ学校というレールから外れてしまった時に、違う分岐点を選ぶというのが難しい社会ではあると思います。
それでも、様々な教育の選択肢は増えてきている。

ぼくは、大切なのは「学校に通うこと」ではなくて「良質な教育を得ること」だと思っています。そして「心から安心できる環境で過ごすこと」。

なので学校が「良質な教育」と「安心できる環境」でないとしたら、そこに通う必要はないよなって思うのです。
それは、全てを放棄して引きこもればいい、ということではなく「その学校」以外の教育の場を探す旅に出ることでもあるのです。


そのバイアスが人を批判する

何よりも感じたのは、義務教育期間中に学校に通わないということが、いかにマイノリティという認識を受けるのかをということ。
そして、無意識の思い込み(バイアス)で人は人をここまで叩けるんだなという恐怖感。

例えばもしも、いじめなどによる心身の被害などで通いたいけど通えない、という理由であれば炎上することはなかったのだろうなと思うのです。
だけど、ゆたぼんは見た感じとてもハッピーそうです。

彼の選択に批判的な人の中には彼自身の将来を心配したり、日本の将来を憂いたり、社会性が身につかない、ろくな大人にならない、など様々な意見があるようです。
でも、「学校に通ってないやつが、のうのうと楽しそうにしているなんて許せない」というマイノリティ、多様性に対する不寛容さが多くのコメントからにじみ出ているように感じました。なんだろう、学校に通えない子は不幸でないといけない、みたいな無意識の感覚がある人がいるのだなと。

こうしたバイアスって、他のケースでも同じようなことがあったなと思います。
例えば、生活保護を受けて生活している人が旅行に行ったとか。
母親なのに家事ができないとか。
男なのに、一家を支えるだけの稼ぎがないとか。

不登校なのに、開き直って楽しそう、というのが気に触る人って一定数いるのかもしれません。

人が人を叩かず、多様性を認めあえたらいいのに

この炎上を見て、心から思ったのはどうしようもなく当たり前のことでした。
人が人を叩くのではなく、その選択や多様性を認めあえたらいいのになと。
意見の相違は必ずあります。議論にもなるでしょう。

結局のところ、何をもって正解だったとするかは本人にしかわかりません。
どんな選択をしても後悔することも、納得することもあると思うのです。

でも、こうした新しい生き方を目にした時、自分が受け入れられなかったとしても無意識に叩くようなことはしたくないのです。


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今日も、見に来てくれてありがとうございました。
色んな生き方が当たり前になる。そんな社会が好きだなって思います。
ぜひ、明日もまた見に来て下さい。





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三木智有|家事シェア研究家
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