扱い レッテル
不安
不満
不信
一体この不がもたらすものは何だろう???と
ずっと疑問を投げたまま
答えを待っていた。
そして時間差で今日
それが体感としてわかった感じがした。
特に不満という文字。
満たされていない。
満ちていない。
だからだ。だからなんだ。
これは母のことを思って出てきた言葉だけど。
果たしてこれは本当に人ごとなのだろうか?
いや、それはわたしにも当てはまる。
受け継いでいるものが確かにある。
そして私は母が今を大切にせず
いまの自分を満たして大切に扱わず
未来の心配のために
お金を少しでも残してとか
誰もみてくれる人がいないのだから
そのためにも残しておかなければと
日頃、節制しているのも知っていて。
それは今を大事にしていないことに感じて
悲しみと何とも言えない気持ちを抱いている。
そして私は老いてゆく母を受け止めきれずにいる。
耳が片方聞こえない
目も片方見えにくい
歩行もスムースにいかない。
心臓も悪い、高血圧で
今にも何か起きてもおかしくない。
いつまで生きているかわからない。
母が言うその症状をそのままに受け止めて
傍目にはずいぶん弱っていく母を
本当にそうなのだと。
何か面倒をみてあげなくてはいけない人として
そのまま小さく扱っていた。
身体はたとえそのような状況でも
母の内面はまだまだしっかりしているのに。
私なんかよりよっぽど
しっかりしている芯を知っているのに。
いつの間にか
サポートしてあげなくてはいけない人
介護しなければいけない人
そのようにくくってしまって
母の持っている力を信じてあげられないでいた。
母が元々不安症で
あれが出来ないこれが出来ないと
自分の老いを受け止め切れず、
嘆きつぶやくそれをそのまま
まともにそういう人とくくって扱っていた。
ただ不安を本当は、
口にしているだけかもしれないのに。
実際、私が母をそのように受け止めて
認めて扱えば
それはより現実化を助けてしまう。
つまりは私も母も望んでいない
現実を早く引き起こしてしまうことに
加担してしまう。
私が母をどう思い
どう扱うか
それが実はとても大事だということ。
そしてもっと大事なのは
それを他人事ではなく
自分事としても置き換えてとらえること。
私もわたし自身を小さく扱い
まだまだだと認めないこと。
私は何もわかっていない。
器が小さい。
あれもこれもやってあげたいのに出来ていないと
烙印を押して自分を虐げること。
自己肯定感が低いこと。
いまここで子育てもしながら
十分にやっているのに
出来てない。
まだまだだといつまでも認めないこと。
それこそがいつまでも満たされない。
そのループを繰り返し
いろんな場面で起こしてしまう。
それでは自分もいつまでも
満たされないばかりか
周りにゴミを撒き散らして悪影響を
与えてしまう。
自分自身が満たされて
溢れている状態でもないのに
介護という一般的なイメージに引っ張られて
その重たいイメージで
大変なものであると思って
母を面倒見なくてはとやってしまうこと。
それによって負の連鎖のような
現実を引き起こしてしまうことの恐れのあること。
それが一番望んでいないことだ。
だとしたら
いまここで私がすることは
そんな要らない思い込みを解除することだ。
母に対して思っている母はこんな人だという
負のレッテル
イメージを変えていくことだ。
母は何も出来ない人ではない。
小さな人ではない。
心配症なところはあるけれど
十分に力がある。
そのことを感じて
ひたすら信じること。
それを中心に置くこと。
心配よりもその持っている力を信じること。
見護ること。
いま一番心に留めておくのは
それだ❣️
お風呂に入って
じっくり感じていったら
溢れてきて
言葉にして吐き出してみたら
たくさん涙が出て。
あーやっと認められた。
見つめることがまた出来た。
お父さん
見護ってくれて
ありがとう。
そう呟いて
いまこのノートに忘れないように転写している。
私は老いていく母を
出来たらその身の命が尽きるまで
出来る限り見護りたいんだ。
愛のある選択をいつだってしたいんだ。
例えそれが一般的には難しいとか
むりだよと言われたとしても。
その無理のないやり方や味方
捉え方やサポートの利用をしながら。
母を通して学ぶことをしたいんだ。
どちらかがサポートするだけの一方通行ではなく
きっとそれぞれの力を発揮しながら出来るそんな形を探しながら。
いまあるかいごという
イメージや現実を変えていく未来をみたいんだ。
昨日ふと気になったもの
ここにも大事なメッセージがあった。