【随筆】富士の名は -3-
前回からの続き
小学生のころ、授業の一環か担任の趣味だか、百人一首を全首おぼえて暗唱するという課題があった。結局100もおぼえきらなかったが、今でもいくつかの歌は記憶に刻まれている。当時は歌の内容や意味も考えずただ頭に入れ、口でおぼえたようなものであったが、今思えばその後中学へと上がった時に、この記憶が少しばかり古典の授業でのひそかな自信にもつながったような気がする。
そんな百人一首の歌のひとつに、富士山を詠ったものがある。
小倉百人一首では4番目にあたる歌だからだろう、今でもさらりと暗唱できる一首である。歌の意味は、田子の浦、駿河つまり静岡県の海岸のほうへ出て行って仰ぎ見ると、真っ白い布をかぶったような富士山の高嶺が見え、そこに雪が降り積もっている―――といったものであろうか。
なんということか。子どものころは何とも思わなかったが、ここに描かれている情景とは、いかにもニッポンイチのヤマ、フジヤマではないか。海、白い雪、そして富士山。日本人の心の故郷なりと言わんばかりのそれではないか。もしかしたら、山部赤人こそ現代に伝わるシンボルとしての富士山の、プロトタイプの作者だったのだろうか。
そう思いながら、せっかくなのでと山部赤人について調べてみる。現代はいつでも過去へとつながりうる時代なのだ。なるほど彼は、奈良時代の歌人で、先の一首はもともと万葉集にのせられていたものなのだとか。そうしてその原文を見て、あることに気づきおどろいた。
ひらがな、カタカナが平安時代にできたことくらいは知っている、驚いたのは原文がすべて漢字だったということではない。同じような歌の体をしつつ、ところどころ表現が記憶にあるものと違ったいうこと、そして「フジ」にあてられた漢字が異なっていたということ、これである。
山部赤人、彼が見た山、彼が詠ったフジは、命の火が尽きることのない、力強い火山、「不尽」であった。彼はそのリアルを確かにと捉えあらわしていたのだ。思うに、奈良、平安の時代の不尽山は、今と違って噴火活動も活発だったにちがいない。おそらくはたびたび噴煙が上がるかの山に、当時この山を見た人々は、大地のあふれる生命力を感じていたであろう。
なぜ百人一首の4番目の歌、つまりは「新古今和歌集」に収録されたこの歌は、フジの漢字が変更されてしまったのか。―――その真意は知る由もないが、かくて「不尽」は「富士」に、力強い火の山は唯美で象徴的な山へ、つくりかえられてしまったのだ。ああこれこそ、いわゆる「日本人の心の故郷」、そして後に「風呂屋のペンキ画、芝居の書割」と言われもした、ニッポンイチのシンボル、マウントフジの始まりだったのか。
ふと窓の外に目をやると、空には厚い雲がかかっていた。どうりでさっきから、部屋の中が暗いわけである。まわりが薄暗いと、気分も晴れない。光と温度とは、人の気分と密接にかかわりあっているものだ。それが、自然とともに生きるということだ。
私にとって富士は、遠く離れた存在にすぎない。しかしその富士も、天気の影響を受けるし温度をもっている。京の都に住む平安貴族にとって、富士は本当の意味では心の故郷などではなかったことだろう。ただそこに、優美で幻想的な抒情をあたえるような窓枠をはめ込み、不二なる不尽を象徴化して、広く理解しうるものとしたのだろう。象徴化されるということは、不二ならざるもの、あまねく人々に受け入れられるシンボルとなったということ。さてそこに、感じうるリアルな温度はあるだろうか。
今のところ予定はないが、私が富士を見るなら山部赤人が見たその温度で、かの山を見たいと思う。そうでなければ、むしろ身近な自然の温度を感じることにこそ、もっと心を寄せたい。―――まずは家の外へと、打ち出でてみようか。