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読書感想文・アントン・チェーホフ『かもめ』

底本:「かもめ・ワーニャ伯父さん」新潮文庫、新潮社。
1967(昭和42)年9月25日発行
2004(平成16)年11月25日46刷改版
青空文庫さんで拝読。

 戯曲と小説にはかなりの違いがあって、まずそこに驚く。
 以前、『ファウスト』を読んだ時もそうだった。
 舞台設定の説明等から始まる。
 どういう場面であるのかが直截ちょくさいで判り易い、と言えばそれに尽きる。

 私はロシア文学に馴染みがない。
 読んだと記憶にあるのは『カラマーゾフの兄弟』下巻まで、『アンナ・カレーニナ』を途中まで、『罪と罰』の触りくらいだ。『アンナ・カレーニナ』は映像でも観たから、大雑把な粗筋なら知っている。

 チェーホフの『桜の園』はタイトルから興味があったが未読。時折、タイトルが坂口安吾さかぐちあんご『桜の森の満開の下』と脳内で混乱する事もある。
 
 昨日、友人の教えでチェーホフの『かもめ』に興味を持ち、その日の内に読了した。

 読み手を引っ張る力が凄い。
 それぞれ、強い個性の登場人物たちが泣いて笑って怒り、内容も彼らも表情豊かな作品と感じた。
 作中に出て来る言葉「躍動」を、それこそ鮮明に目の当たりにした心地である。

 「私は、かもめ」

 この台詞が折に触れ出て来る。とても有名な台詞。

 女性で初の宇宙飛行士であるロシアのワレンチナ・テレシコワさんが、宇宙から送ったメッセージと同じ。
 宇宙活動中の全飛行士に与えられる個人識別用のコールサインがある。
 テレシコワさんは「チャイカ」。
 「かもめ」という意味のコールサインだった。

「ヤー・チャイカ」(こちらチャイカ)

 この宇宙からのメッセージが、チェーホフ『かもめ』のヒロイン(だと私は目した)ニーナが繰り返していた「私は、かもめ」と重なり巷間に広がったらしい。

 怖ろしくも人を魅了してやまない宇宙空間に、女性として初めて赴き、今でもその業績を称えられるテレシコワさんとニーナでは、境遇がかなり異なる。

 ニーナは女優としての名声、そして恋に憧れ、焦がれて翻弄された。
 彼女が作中で「私は、カモメ」と言う時、そこには物悲しさや寂寞が漂い出る。
 舞台効果は抜群だろう。

 とは言え、女性は強い。

 この作品で唸るように痛感した。
 翻弄されているように見えるニーナも、いざとなれば肝が据わるマーシャも、彼女らに愛されたトレープレフの母・アルカジーナも。

 皆が皆、奥底に秘めたタフネスがある。

 だから、もちろん聡明な女性ばかりなどではない。過ちも犯せば絶望したり、浮き立ったりと落ち着きがなく、そこが読み手としてはハラハラして、続きを知りたくて堪らなくなるのだ。

 人の世の道理を弁えた賢人のようなトリゴーリンにも、無邪気な子供みたいな面がある。
 とても子供っぽいけれど才気あるトレープレフにはめくるめく人生の流転があり、彼を洞穴のような大口を開けて待っている。彼からは高い矜持と卑屈さ、短慮、休まらない精神が始終、発散されていた。
 ソーリンは温厚で愛嬌があるが、女性に振り回されている。
 それは他の男性にも言える事だが。

 読み進むにつれ、ニーナの「私は、かもめ」という台詞の印象が変わって来る。

 項垂れて悲し気で。
 寂しく一人、佇んでいる。

 しかし、最後の「私は、かもめ」はそれまでとは一線を画していた。
 彼女はテレシコワさんのように気高く羽ばたこうとする。
 その時に空気を震わせたであろう、ニーナの声。

「私は、かもめ」

 弱々しい。かすか。だが、そこに揺らめき立つ焔のような意思が宿っている。
 彼女は決別した。

 撃ち落されたかもめではなくなった。
 人から何かを捧げられる必要も、もうない。

 終幕の引き金は、嘗て鴎を撃ち落とした人が引いた。
 酔っ払いたちがゲームに興じていた夜の裏。

 ところで私は彼らの中では、トリゴーリンに最も共感してしまった。
 「書かなくちゃならん、書かなくちゃ、書かなくちゃ」
 所謂いわゆる、創作脳じゃないか、と思ったのだ。
 誰に強制されるでもない、身の内側から湧き上がる欲求、希求。

 彼はその奴隷であり主人であった。
 
 ツルゲーネフと自分を比較せずにはいられないのなら、苦しいだろう。
 そう思う。私はそのような比較はしない性分で生きている。

 自分が書いた短編時代劇小説の、刀鍛冶の主人公をも想起した。

「 打つことしかない。

 打つことしかない。

 打つことしかない―――……。」

 これはもう、広義の意味で創作に携わる人間の業(カルマ)と言って良いだろう。

 自嘲気味に考え、そして、この作品を読み終えた時。

 私の胸には青空を舞うかもめがいた。

 とても素敵で愛しいかもめだった。



画像は過去の貼り絵、千切り絵作品の一部。

 

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