がんばらないってどうやるの?④~なぜかアメリカ留学することに。異国での奮闘生活~
こんにちは。がんばりすぎる女、ともです。
がんばることで、人生くぐり抜けてきた女が、がんばることだけじゃ、もうどうにもならないことに遭遇し、さぁ、肩の力を抜いていこう。がんばりすぎるのはもうやめよう!と思ったのですが…
そもそも、がんばらないってどうやるのかわからん!!ということに気づき、今、肩の力ってどうやって抜くんやろうと、いろいろと試行錯誤しております。
その試行錯誤の1つとして、過去を振り返りながら、どうしてこんなに何でもムリしてがんばるようになったのか、洗い出し中です。
前回までの記事はこちら。
留学することになったきっかけ
高校は進学校に通っていたにもかかわらず、『日本の大学にはやりたいことがない』とかいう謎の理論を唱えていた私。
当時、手話にのめり込んでいたので、手話通訳士になりたいと思っていたのです。今思えば、通訳には様々な知識が必要。文化背景を学ぶとか、言語学を学ぶとか、いろいろ方法はあったと思うのですが、性格+若さゆえの視野の狭さで、そんなことが見えなかった私は、『遊んでいる日本の大学生=無意味』くらいの斜め上からのぶった切りで、日本の大学への進学を拒否します。
で、手話通訳士への最短ルートを模索した結果、2つにしぼりました。
①世田谷にあった私立の専門学校にある、開講して数年の手話通訳士を養成するコースに通う。高校卒業後すぐ入れるのが魅力だが、新しいため通訳士試験合格実績とかもまだよくわからない。
②埼玉にある国立のリハビリテーションセンターにある手話通訳士養成コースに通う。実績は豊富だが、入学できるのは20歳以上のため、2年空白の時間ができる。
①に通うつもりで学校見学なども行き、準備し始めるのですが、土壇場でやっぱり実績が気になり、②にすることに。そうすると、高校卒業後から20歳までの空白の2年間をどうしようか、ということになります・・・
そんな時、母に言われた一言で、私の人生が変わります。
『留学してみたら?』
実は母は、英語への憧れが人一倍強かったのです。
●4年制の外大に進学希望するも、かなわずそこの短大へ。
●留学を希望するも、父(私の祖父)に反対されかなわず。
●スチュワーデス(この呼び方、時代を感じる・・・w)を目指すも、最終審査で落とされかなわず。
●結婚してからも、放送大学で英語を学んだり、海外からの留学生と交流して、なんとか英語が話せるようになりたいと努力する
といった感じで、とりわけ、留学への憧れはすごかった母。そんな母に背中を押され、留学について調べ始めます。
語学留学と正規留学
調べてみたら、留学には大きく分けて2つあることを知ります。
◎語学留学『その国の言語を学びに行く』
◎正規留学『その国の言語を使って、何かを学びに行く』
最初は、語学留学のつもりで動きますが、近所に住むアメリカ留学中のお姉さんから言われた一言で、留学の方針が決まります。
『アメリカの公立の短大に正規留学するのが、ハードルもかかる費用も低い割に、一番英語が身につくよ。』
そう、イギリスもオーストラリアも、正規留学って少しハードルが高いんですよね。でもアメリカの公立短大って、入るのはかんたんな上、学費もそこまで高くない。そして、勉強内容も4年制大学に比べかなり楽。4年制大学に入りたければ、卒業してから編入すればOK。
調べてもメリットしか見えなかったので、アメリカの短大一択にすることにしました。そして、日本の保険会社につとめる男性に斡旋してもらい、ニューヨーク州の大学に留学することに決めます。
しかし、卒業後の4月に留学してみたら、日本人だらけ・・・その男性がかなり多くの日本人を斡旋していたようで、プチ日本社会ができあがっており、英語を話せなくても生活できる世界がそこにはありました・・・
金持ちの道楽で来ているような子もたくさんおり、限られた資金で留学している私は、こんなところで時間を無駄にしたくない!!と、転校を決意。同じ事を考えていた人に乗っからせてもらう形で、別の短大に入ることにしました。それが、ハーキマーダイヤモンドでもそこそこ有名な、あのハーキマーです。
ハーキマーでの大学生活
4月から行っていた短大と、ホームステイ生活のおかげか?英語テストでいい点数がとれたようで、ハーキマーの短大では、留学生向けの英語サポートクラス、ESLは免除されました。でも、初めて入るアメリカ人向けのクラスでは、先生の言うことが全く聞き取れない・・・
授業中に泣いたり、前後に教授のところに通い詰めたり、留学生をサポートする先生に泣きついたり、周りの日本人や海外からの留学生に助けてもらったり・・・と、なんとか生活を回していきました。
それでも、必死で単位を取り続け、2003年9月に入学した短大を2005年1月に卒業。2年かからず卒業するほど、必死で奮闘しました。
昔からがんばり続けていたせいで、数ヶ月に1回39度台の熱を出すことが当たり前だった私。ちなみに留学中、2年半ほどで、6回くらいは高熱を出したと思います(笑)友だちに、またかってよく言われていた気がするw
そのくらいがんばってがんばってがんばってがんばってすごした、留学生活でした。ハーキマーの魅力は、自然が多いところだなー。勉強に疲れても、緑がたくさんあるだけで癒されました。野生のリスはそこら中にいたし、授業中に窓から野生の鹿を見たこともありますw
この時の私の問題点
今までの記事をお読みくださった方は、うすうすお気づきのことと思いますが・・・
留学生活をがんばっていた私は、一見自分の意志でがんばっているようで、全く自分の意志や本心に沿った行動ではありませんでした。ただ目の前のことに一生懸命だっただけ、そして、家族が喜ぶように動いていただけなのです。
アメリカ留学のきっかけ
⇒母のススメ。行ったら母が喜ぶと思ったし、英語も話せるようになればラッキーかな、と思った。
転校のきっかけ
⇒こんな学校に行ってしまっては、一生懸命父が払ってくれる学費をムダにしてしまう。父のためにも学費は最大限有効に使いたい。
単位を取りまくった理由
⇒なるべく最短ルートで単位をとって、学費の負担を減らしたい。
学費を最小限に抑えるつもりが、4年制大学に進みたくなり、編入することにします。(もともとは短大だけの約束でした)。これも、私の意志は少しで、当時付き合っていたアメリカ人の彼氏と一緒にいるための選択だったと思います。。。くそやな、自分w
今見ると矛盾だらけですよねー笑
親に迷惑はかけたくない、でも自由にやっている友だちを見て、うらやましくて、自分も好きにやりたい。もともと送り出したのは母なのに、反対するなんておかしくね?もういい!やりたいようにやる!4年制大学行ってやる!って感じでした・・・苦笑
それで、4年制大学に通い始めますが、半年たった頃、母の容態が悪くなってきたから帰ってこいと言われ、夏休みに帰国。
もともとは夏休みだけ帰る予定だったのですが、そのまま日本に残ることに・・・そこから私の人生は、またまた大きく変わっていくのです・・・
好きなことを諦めさせられ、始まる母の介護生活。アメリカ人彼氏との別れとストーカー化。まだまだ試練は続きますw
いやー、がんばりすぎやな、自分。書いてるだけで疲れてきます(笑)お読み頂きありがとうございます^^まだまだ続いていきますのでお付き合いしてくださると嬉しいです♪
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とも プロフィール
新潟在住関西人。双子含む男の子3人の母。
塾講師、企業受付を経験した後、大手英会話学校で大人向けの英会話講師として、デビュー。延べ10000人に指導。講師育成サポートにも携わる。
長男出産後、親子英語講師として開業。
主宰の親子英語サークルがキャンセル待ちも発生する人気教室になる。
双子出産後に、講師向けコンサルタントとして活動開始。
講師力UPや講座構成のお手伝いをするうちに、起業コンサルティングや商品設計、広報コンサルのようなこともするようになる。
2019年3月、新潟県に移住。6月には親子英語レッスンを開始し、同年12月までに延べ250組の親子を相手にレッスンを行う。
現在は、英語講師は引退。
『あなたの魂の叫びを、誰かの魂を震わせる商品にする、魂震(こんしん)コンサルティング』を提供する、魂震コンサルタントとして活動中。
必要があればスピリチュアルリーディング能力も使い、見えない世界からのメッセージも伝える。
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