エゴを持った猫は可愛い。
さっき夫に娘が猫撫で声で、自分の好きなアニメを見てほしいとせがんでいた。夫はそういう時は、焦らすかのようにさらりと受け答えるのだけど、さらに娘が気を引こうと挑む。
このようにしている時の娘は一段と大人の猫のように見える。そしてそういう娘をあしらう夫もまんざらでもないみたいだ。
娘にとって夫は、ちょっと違う国の王様と言ったところだろう。芸術家肌の娘は、社会的地位と経験を持った王様に自分を認めてもらおうとあの手この手使って気を引こうとする。
夫は夫で、そのような娘から刺激を得ることは多いらしく、最近はアニメのライブに行ったりフィギュアを買い集めたりして、仕事一色だった生活にハリが出てきた。
これが真面目で優等生な娘だったら、夫にさほど影響は与えなかっただろう。日常生活ではやることはちゃんとやっていて、好きな人には甘えたり、意見したり、感情をぶつけたり、ゲームできるくらいのエゴがあるのは健康的だ。
そういえば何日か前、あるオンラインギャラリーの社長が、新人作家にしてほしいことをレクチャーしていた。こんな絵を描いてほしいとか、断られても何度もトライしてほしいとか、そんな話を聞いていると、作家の作品自体を見ているのではなく、作家の情熱が欲しいのだと思った。どんな要求も呑んで頑張ってくれたら、満足なお金を払いますよ、と言いたいのだろう。
このような話を聞くと、作家とギャラリーってゲームだなと思う。作家の承認欲求にギャラリーはお金と名誉で応えようとしている。このゲームに疲れないエゴを持った作家は、出世街道を楽しんで行くのだろう。
残念ながら先行きが見えているゲームに私は興味を持てない。
お金とか名誉とか、エンタメとか、一時が過ぎれば消え去るようなものには情熱が湧かない。他者目線で評価されたものは、時が過ぎれば他のものに取り替えられるからだ。
では私のエゴってなんだろう。
《エゴ:ego》をネットで調べてみた。
私のエゴは今、自分の内側に向いている。
最近制作ではデジタル手法だけでは物足りなくて、アナログ手法で新しい表現を模索している。筆で細かく描き込むのではなく、絵具を垂らしたり滲ませたり、飛ばしてみたり、使ったことのない支持体に描いて手触りを楽しんだり、身体性があって偶然できる表現に魅力を感じる。自分の思い通りにならないけれど、ミラクルに出会うのは感動的だ。
素材の可能性に委ね、偶然をもっと楽しみたい。このような好奇心と冒険心は大人のエゴだ。
どうせなら、エゴをもっと楽しんでみよう。本当にやりたいことに没頭することは、いらない物欲や承認欲の削ぎ落としにもなる。
人間は本来、エゴを持った猫だ。わがままで気ままで、可愛くて、自立している……猫みたいな人を、出会った数だけ、描いたり作ったりしてみたい。
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