怠惰を許そう 前を向くために
「何もする気が起きないの→暇になる→忘れていた嫌なことが心に浮かぶ→余計憂鬱になる→何もする気が起きない→以下同文」という負のスパイラルってある...先週の自分がまさにそれだった。
この三連休は引きこもってとにかく心と体を労わっていた。長すぎる孤独と退屈は人間をだめにするけど、程よい孤独と退屈は人間にとって必要なものだ。ただただ眠り、食べ、携帯で動画をみて、眠った。こんなに自分を甘やかしたのはいつぶりだろう、とても怠惰で贅沢で必要な時間だった。
特に何があったわけではないけど、毎日の疲労は心も体も気づかないうちに蝕んでいたのだと気付いた。疲労って傷だ。私は疲労センサーが鈍くて自分の疲労に気づかないまま駆け抜ける距離が長いから、強いと言われることも多いけど、時に人知れずポッキリ折れて自らを深い穴に沈めてしまうことがある。人より長く息を止めて泳げるけど、陸に上がった時のダメージが人より強いような感じ。どういう時にそんな自分がやってくるのか、事前に知れたらいいのにと思う。生理周期や睡眠時間・食事内容・ストレスを感じた事柄のストレス度と回数を計算して、そろそろやばいってわかりたいものだ。(きっとAIがすぐ可能にしてくれるだろう)
特に何があったわけでもないと書いたけど、本当は、すごく嫌な人のことをことあるごとに思い出してしまってもいた。誰かに対して心底嫌悪感を抱くことなんてここ数年ほとんどなかったのに、その人の言葉や態度がトゲトゲした塊になって自分の心の中を傷をつけながらぐるぐる回った。自分の不調のせいでひとつのことばかり気にしてしまうのか、気にしてしまうほどの嫌なことがあったから不調なのか、よく分からない。最近読んだユヴァルノアハラリさんの本(サピエンス全史)に「人間の幸福感はセロトニン濃度であらかじめ決まっている。空調の設定温度と一緒で一時的に上下しても、またその人の設定温度に戻る。進歩し続けることが幸福度を上げるとは限らない。」という印象的な比喩があり、自分は、努力してそれなりに目標を叶えてきたけど、「自分の人生はこんなはずじゃなかった」とか「自分の人生なんて人に決められたありきたりなものだ」とか時折考えたり考えなかったりしてしまう程度のセロトニン濃度の持ち主なのだろう、そう思うと、マイナス思考にとらわれる自分を自然現象として受け入れられて少し楽になれた。(そういうマイナスな感情についてもまた考えて文章にしたい。)また、ハラリさんは「ずっと穏やかな気持ちを保とうとするなんて、波の打ち寄せる浜辺に立って波を手で押しとどめておこうとするようなものだ」とも言っておりこれも波の激しい私の心を受容させてくれる有難い比喩だった。
「妥協しないこと。頑張ること。」という漠然としながらも確固とした指針を持って生きてきた頑固な私(こういう自分についてもまた文章を書きたい。)が疲労センサーの感度を上げるのはなかなか難しいけど、好きなものへのセンサーなら高められるから、気持ちいいもの、癒しを感じるものをもっと身の回りにわかりやすく集めて生きたい。持っているひとつひとつのものをもっと大切にしたいし、自分の心と体ともっと良く向き合いたい。
ほんの1cmでいいから自分の心と体にそよ風を通す隙間を作っておきたい。
その隙間とは? 多分、音楽や読書やヨガや文章を書くことや大切な友人や家族との繋がりを感じること...その前の基本として、毎日の睡眠と食事と、部屋を気持ちよく保つこととか、負のスパイラルから抜け出すためによく言われる諸々の爽やかな行動。でもなんと今回はそれができるようになるのに二日半かかった...。
爽やかさ、心のゆとり、そういうものは日々の積み重ねで叶えられると私は信じているけれど(わかりきったことのように前述しているし。)、でもそんな心がけが到底及ばない深い穴に落ちることだってあっていいじゃないか。そういうときはただただ怠惰であることを自分に許そうじゃないか。それが、この怠惰な週末を過ごした成果です。