忘れられない話[コーラは存在の証明]
ブラジルで出生したという90代男性(Aさん)は、成人してから日本に戻り、カメラ部品を組み立てる仕事やタクシー運転手をして生計を立てていた。
妻は10年前に亡くなり、姪がキーパーソン。明るい性格でおふざけが好き。女性スタッフのお尻をすぐに触ろうとするセクハラはあるものの、茶目っ気のあるラテン系おじいちゃん。
インスリン注射を打とうとすると、針が刺さる前に「痛ーい♡」と甘えた声を出す。
「まだ刺してませんよー。」
「えへへ。お姉さん結婚しよ?」
このやり取りがルーティンになっていた。
ある時、Aさんの糖尿病の血糖コントロールが悪いため、主治医は食生活を見直すことを提案した。
ホームの食事は1日1600〜1800kcal程度。これだけなら問題ないが、Aさんはコカコーラが大好きで毎日自販機で購入し、飲みながらフリースペースで新聞を読むのを日課にしていた。
主治医からコーラ禁止令が出た。
すると、ショックを受けたAさんは居室に引きこもり、昼間もカーテンを閉めた暗い中でベッドに潜り込んで「もう死にたいよぉ。」と繰り返す様になった。周りの予想以上に落ち込んでしまった。
ある日事件は起きた。
ホームの向かいのマンションに住んでいる方が、1階の事務所に駆け込んできた。
「6階のベランダから、誰かが飛び降りようとしていますっ!!」
騒然となる。6階のどの部屋!?誰!?
事務所の職員が一斉に6階に向かう。道路に面している側の部屋は10部屋あり、手分けして居室内を確認する。
すぐにベランダに出ているAさんを発見、保護する。大事に至らずに済んだ。危なかった...
(この件が契機となり、全居室の窓は10センチ程度しか開かない様に器具が取り付けられてしまう事になる)
コーラがないとこの人は死んでしまう、という事で主治医に事情を説明して、コーラを解禁してもらい、代わりに内服薬とインスリンの量が増える事になった。
たかがコーラ。私たちの様に行動に制限がなければ、コーラ禁止くらいでは大きな影響はない。
でもAさんにとっては、自分の意思で選択して購入するという、数少ない自由の象徴だった。
私たちは、彼のアイデンティティを奪う行為をしてしまったのだと反省した出来事だった。
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