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来賓挨拶っていらんよね

あえて極端に書いてますが、つまり言いたいことはそういうことで。

儀礼的な通り一辺倒の無味無臭を耐える美学はもういらないと思うんです。
その能力、何にも意味ないから。
で、散々あるしね、そういうの。
まだまだ至るところに。

必要なのは、ズブズブの属人的な人間臭い、あなたにしか言えない、バックグラウンドを背負いに背負った
刺さる言葉。
誰かしらを揺さぶる魂の言葉。

過去を振り返っても、つくづく感じます。
やめませんか、あれ?

感情論ではなくて(来賓の方への感謝と、みたいな、そんな話がしたいんではなくて)、

学校で掲げられる新時代に送り出さなきゃいけない人財像と、
これからの時代に求められる能力と、

諸々を踏まえたら

当事者のスピーチが一番じゃないかと。
仲間への愛、未来への希望、先生への感謝、親への御礼、語りたいやつが語れば良い。
誰もいないなら、誰もいないで良いしね。

誰のための、何なの?って話。

ここからは僕の思い出話ですが、

僕、中学の卒業式の答辞を読んだんです。

イタイタ中学生の青春ど真ん中の下原稿。
でも本人はいたってマジで真剣で、今日ここで革命を起こしてやるぐらいのつもりで血で書いたようなスピーチ原稿。(たぶん)

それが、めちゃくちゃ赤ペンが入って戻されて。
ほんとにそれは当時衝撃で。
テストは100点しか取ったことないぐらいだったのに、5点くらいの答案用紙を返されたような。

あれは一体、誰のための何だったのか。

先生は良かれと思ってだと思うし、その当時はしょうがなかったってのもわかる。
いや、わかろうとする。
あれは体裁を整えた。それ。

僕は、あの時、失敗をさせてもらえなかった。
俺の言葉を発させてもらえなかった。
内申書を人質に取られていた優等生のお利口さんには、
直前で元原稿に差し替えるなんて勇気は持てなかった。
それをやれてたら今の僕はいないから、
後悔も恨みも全くないけど。

良く言えば、社会ってのはこういうもんだって学んだわけで。
「つまんない答辞だったな。らしくなかった。」
って誰かに言われて(言われてもないかも)

「しょうがないよ、直されたんだもん。」
って他責に逃げた過去。

そのおかげで、まだ飛べたかもしれない頭上に天井を作られたような。
やっぱりまだ飛べたよね?飛んでいいんだよね?って思えたのは、たまたま芸人をやって社会を外れたから。

ふと思い出した記憶。

空っては自由で、自分次第でどこまでだって飛んでいけるはず。
って思っててもらいたい。

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SDGs芸人アンカンミンカン富所哲平
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