ひかり(3)
「ひかり(3)」
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1985年1月(252号より)
痰が喉につまらずにすんだ。
乳を吐かずにすんだ。
太陽が登った。
一日持ちこたえた。
「おかあさん、ごはん」
ダイとリュウの声が聞こえる。
時計を見ると、七時四十分になっている。
「そやったね」
私は、飛び起きて、収納庫から少し固くなった食パンを出して、トーストを作る。
夫が製鉄所から帰って来た。
「どや、亜里は」
「うん、元気よ。よくなっているみたいよ」
「ああ元気そうやな」
「何してんの、あんたたち。
ダイ、はよ学校行く用意しなさい。
リュウ、ぼやぼやせんと幼稚園行く用意しなさい」
「何や、お母さん。
毎日毎日怒鳴ってばっかり、お母さんなんか、
おらん方がええわ」
「なにいっ」
私の手は、思わずダイの頬を引っぱたいている。
「何しとんねん、お前は、ええかげんにせんか」
夫の食事を作りながら、私は、動きのい頭を必死に動かそうとしていた。
何を作っているのか、
自分でもさっぱりわからないまま、
酒のおかずをテーブルの上に並べた。
「行って来ます」
ダイが出かけ。
しばらくして幼稚園の制服を着たリュウが出かけて行く。
玄関先迄、
「行ってらっしゃい」と送り出し、
私は今から食事を取る夫に向き合って座る。
「亜里子は、良くなってるんか」
「当り前やないの。
今日は昨日より大分いいみたいよ。
薬もお乳もちゃんと飲んでるし、咳込む回数が減ったみたいよ」
「そうか、それやったらええけど」
亜里子が咳き込み出した。
飛んで行く。
亜里子を抱く。
背中をトントンただきながら
「亜里ちゃん頑張れ、亜里ちゃん頑張れ」と、
大声を出して、部屋の中を歩きまわる。
相変らず四十回近い激しい咳き込みが続く。
「何や、まだひどいやないか」
夫が、心配そうな声を出している。
外には明るい風が吹いている。
今は昼だな。
薬は飲ませたな。
ええと、今、昼だから昼ごはんをクミに食べさせないといけないな。
ええと、亜里子は寝ているから、あとは昼二時に薬を飲ませればいいな。
私の前には亜里子がいて、私の頭の中にも亜里子がいて、私の瞳の中にも亜里子がいる。
わたしの背にぞくぞくと寒気がしはじめて、わたしの口から小きざみな咳が出はじめる。
「死ね、死ね」
という死神たちの合唱が頭を揺さぶる。
赤ん坊を助けるよりは、自分の方が助かりたい。
泥沼からはいずり出たいという一念に変って行く。
こんちくしょう、こんちくしょうとわめきながら、咳にくいつくされた赤ん坊に向かって行く。
明かるいな。夏だな。
今は昼だな。
突然にっと笑いたくなる。
振り向くと、夫がうどんを作ってくれている。
クミがひざ元にすり寄って甘えてくる。
私はクミの体を突き放して亜里子のそばへ屈み込む。
『死なせたら負けだ』
私の眼の中で亜里子のベビー服が揺れている。
私はベビー服の裾を必死に自分の方へ引つ張りながら、
「行かないでね。亜里子」
と願している。
キャッキャッと全身で笑いながら、はっきりと見えない眼で私に話しかけてくる。
わたしたちは、亜里子を赤ちゃん扱いしないで、
家族の一員として扱うことに全神経を集中し、
夕食の時、テーブルの見える位置に亜里子のベビーベッドを運んで来た。
「いただきまあす」
という子供達の元気な声を赤ん坊に聞かせ、
家族の団らんを亜里子と共にあるようにした。
赤ん坊はじっとこちらを見つめ、時には喜びの声を張り上げたりした。
スーパーに行くのは夫が引き受けてくれた。
食事の用意も、半分は夫がやってくれている。
昼間は窓を開け放ち、新鮮な風を存分に入れた。
ダイもリュウも学校や幼稚園から帰っては、
亜里子のベッドをのぞき込み、
「亜里ちゃん、亜里ちゃん」と相手になっては外へ遊びに出かけた。
あと一日持ちこたえたら、
峠を越すという実感が向き合った夫と私の間で薄もやのようにひろがって来ていた。
「お前、あと一日、徹底して亜里子を見てくれ」
「わかってるわ、そんなこと言われんでも」
「家事、炊事、いっさい俺がやるから、あと一日、亜里子だけに欲してくれ」
「あの子を生かすためなら、一週間でも徹夜する言うたやろ。やってるやんか」
わたしは、血走った眼を夫に向けながら、恨みのこもった声を張り上げていた。
今、亜里子の百日咳が私に入り込んで来て、
体中がぞくぞくし寒気がする。
喉と胸が突き刺されるように痛い。
ここ五日間ほとんど眠っていない。
何もかも放り投げて絶叫したい気持にまれながら
「あと一日頑張ったら、きっと峠を越すわ」
「あたり前やないか」
夫は叱咤するように言葉を吐いた。
下の砂場から、高層団地の五階のわたしたちの部屋に子供たちの声が響いて来た。
私は、遠い遠い国から言葉が運ばれて来るように聞いていた。
太陽は暖かく大地を包んでいた。
私達の部屋の落書きだらけの上にも光を注いでいた。
亜里子の寝顔の上にも、
夜勤明けの夫の顔の上にも、
疲労にも、苦しみにもさんさんとふり注いでいる光を感じながら、
「あと一日、頑張ったら、きっと峠を越すわ」
と、つぶやいて、夫の顔をのぞき込んだ。
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1985年1月(252号より)
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