同人誌Amazon 1985年1月号(252号)より 授乳室のドアを開けた途端、ひんやりと沈黙した空気が頬を打った。 それは冷たさではなく、今まさに、生まれて2 〜3日しか立たない。 小さな小さな生き物に向かって、必死に乳房を含ませようとする。 母親たちの無言の戦いから来ていた。 頭巾をかぶり、マスクをして、割烹着のような上着の胸を砕け、 あられもなく、乳房の先を赤ん坊の口に押し込んでいる姿は、まさに女たちの大地だった。 15、 6名はいたろうか、新参者の私の
飢える 家賃三万円 2kの文化住宅の昼さがり 六畳間で ダイとリュウが走りまわっている となりの部屋では 製鉄工場に勤める夫 連日の夜勤でこけた頬を 鰐のように覗かせて眠っている もうすぐ四歳と三歳になる ダイとリュウが喧嘩しておっかけ会う ぐっすり眠っているはずの夫が ガッとはねおきて うるさい !と一喝 二人のこどもはキョトンとして静かになる 四直三交替という馴染めぬカレンダーで わたしたちの生活は明け暮れる 一班、二班、三班、日曜、祭
コクゾウムシが 米粒をくいあらしている 米びつをひ引っくり返し 太陽のもとで追い散らしたはずなのに また繁殖している 米を磨ぐたびに 浮かび上がる米の虫 或る日 買物から帰ると リュウが米びつを引っ張り出して ユックンやフミクンに コクゾウムシを見せびらかしている ぼくとここんなにようけ 米ムシこうてんねんで ダイもクミもユックンもフミクンも キラキラした好奇心をコクゾウムシに 走らせている 米ムシを飼ってるって 真っ赤に猛った心はとつぜん
「ひかり(3)」 Amazon 1985年1月(252号より) 痰が喉につまらずにすんだ。 乳を吐かずにすんだ。 太陽が登った。 一日持ちこたえた。 「おかあさん、ごはん」 ダイとリュウの声が聞こえる。 時計を見ると、七時四十分になっている。 「そやったね」 私は、飛び起きて、収納庫から少し固くなった食パンを出して、トーストを作る。 夫が製鉄所から帰って来た。 「どや、亜里は」 「うん、元気よ。よくなっているみたいよ」 「ああ元気そうやな」 「
「ひかり(2)」 Amazon 1985年1月(252号より) 「おい、まだか」 ドアを開いて顔がのぞき込んでいる。 「いま問診が終ったとこ。 順番が来るまでここで待っとくように言われてん」 亜里子のグラグラする頭をお手でささえながら、 私は、かすれた声を張り上げている。 大学病院の小児科は、母子づれでいっぱいだった。 しかし私には、どの子も亜里子より軽い病気のように思われてならなかった。 「遅いなぁ、えらい待たすなぁ」 夫の顔にも、焦燥感があらわれてい
「ひかり(1)」 Amazon 1985年1月(252号より) 生まれて六十日になったばかりの亜里子が、風邪をひいて今日で一週間になる。 かかりつけの医院で風邪薬をもらい飲ませはじめたが、はじめ軽かった咳がだんだんひどくなり、 一向におさまる気配がない。 朝起きて病院に電話をすると、すぐ連れて来るようにという。 医院は、大変な混みようだった。 幼児たちが待合室のなかを走ったり、歩きまわったりしている。 待っている間、亜里子は二度咳の発作におそわれた。 一度せ
帰 郷 (2) 三歳のダイが レンゲ畑の道を駆けてくる 右足と左足をもつれさせながら 全力疾走してくる わたしは義母の手をひいている 滝の落下する水音を背に 義母の握りしめる灰色の杖が道をたたく 田をぬう一本道がつきあたる山の中腹で 水力発電所の鉄管が白色に輝いている 山の麓で川がかすかに息を噴き 土手は雑草が人の背たけを はるかにみおろしている ダイの駆けて来る姿を 視界のなかで泳がせながら わたしが握りしめているのは 義母の骨太な手である 十二人のこど
帰 郷 (1) 開け放された 玄関の戸を背に義母が肘枕で眠っている ダイとリュウは裸足のまま庭で 水鉄砲のかけ合いをしている 夫が六畳二間つづきを雑巾がけしている わたしはかまどに木をくべて 鉄瓶の沸騰を待っている かまどの火は切り立って燃える 鶏の牡とチャボの牝がビクッと座敷に飛びあがる 猫が義母の足もとで丸くなって眠っている 天井は黒ぐろとひかり かまどの煙を飲みつくしている 夫はシャツを脱いで畳を拭きつづけている リュウの声が空を突き抜けてくる 飛
窓のうちそと ダイが ティッシュペーパーの空箱を半分に切って セロテープをいっしんに張りつけている 割りばしをズボンの間にはさみ リュウが風を切って歌っている " 日本の平和を守るため 暗黒魔人をやっつけろ 今だ 今こそ変身だ” クミは両足を投げ出し 二つの手でミカンを押しつぶしている ベランダで洗濯ものが舞っている 武庫川をはさんで 尼崎重工業地帯の煙群が休みなく 大阪湾へ向かって吐き出されている 昼間の白煙も 深夜は火事と見まちがうほどだ
黒 雲 ひかり号のなかで 男たちがまばらに座っている 窓ぎわにひとり 流れる景色を追っている 週刊誌の活字に顔をうずめている うすい眠りに身をまかせている 企業ばちが 孤独に 飛び交って 旅をつづける ダイが空いたシートを手でたたいて歩く 車内の停止した風に向き合って 引きちぎられた車外の風が 高架下の 民家に アパートに マンションに 建売住宅に カミソリの刃となって切り込んで行く 鼓膜を突き抜けた風は たたみに正座した老婆の髪をな
台 風 クミが 四ヶ月になった 夜勤に出かける夫を見送る 風がうずまいている キュッ キュッ とクミが笑う ダイとリュウは 風の底で寝入っている 鉄扉を押して出る夫 風呂敷包みを抱いている シャツ パンツ 三足の綿くつ下 日本てぬぐい 長袖作業服上下 しっかりと包まれてある 風が一直線に吹き抜けて行く 室温は三〇度を越している クミのベビー服から乳首がのぞいている 海の風が汽笛を殺していく いってらっしゃい いってくるで クミがひっこめた笑
大和撫でし子 ソファーの縁が すり切れている ダイとリュウが はずみをつけて飛んでいる ソファートランポリンだ 喚声がうず巻いている 掛時計の針が息をひそめ 午後零時をさすのをこばんでいる テレビの上の大和撫でし子が 葉を剝いている オッ ヤロ! ヤロ! フミオくんとユックンが飛びこんでくる 四つのソファーで八本の足が ポンポン跳ねている 家中が濁流に飲まれているみたいだ 空気がひっくり返っている わたしはテーブルに腰かけてクミにミルクをやっ
おまえに 一月二十九日 午前二時 分娩台にのぼる 山を削るように 太腿をひらく くくりつけられる両足 鉄棒をのみこむ両手 吹き出る額の汗 一分ごと おまえは 子宮内で炸裂し わたしは いたみに 焼きつくされる むしょうに寒い ふきでる汗 ぜっきょうする産道 四年前 死にものぐるいでダイを産み そして リュウを産み いま おまえを産む 発露のおまえと拮抗して おまえの力に負けまいと ひたすら 憑かれて いきむ 力つきる
走り抜ける コクゾウムシが 米粒をくいあらしている 米びつをひ引っくり返し 太陽のもとで追い散らしたはずなのに また繁殖している 米を磨ぐたびに 浮かび上がる米の虫 或る日 買物から帰ると リュウが米びつを引っ張り出して ユックンやフミクンにコクゾウムシを見せびらかしている ぼくとここんなにようけ米ムシこうてんねんで ダイもクミもユックンもフミクンも キラキラした好奇心をコクゾウムシに走らせている 米ムシを飼ってるって 真っ赤に猛った心はとつぜ
撃 つ 立つ春に 夜勤あけの 頬殺げおちた 夫が深々と眠る 横で遊ぶ幼児二人 閉じたカーテンには 太陽の光が引っかかる 室外は春の草花がみだれ 芳香がひたと吹き抜けるが 機械油を滲ませた夫は今深夜 子供は夜をおえて夜が来るのに 激しいとまどいをキャッキャッと わたしの臓腑めがけて発するがただ 父親の眠りの外で遊び太陽のない事も 小さな魂に抱きしめて笑いにかえている ぼくたちのお父さんはとてもえらいんだよ 工場の現場で直接機械ととり組んで汚れて
午 後 浜風が吹く 内海から 武庫川に向かって 波が流れて行く 白くもうもうと 電力会社の 煙突群から吐き出される煙 が 街の中心部に流れていく わたしのなかに 波が流れこんで来る 煙が流れこんでくる べランダの鳥籠が揺れる 十姉妹のつがいが交尾している 雌の嘴が 巣のなかで上下に 喘ぎ 開いては閉じる わたしのなかで 十姉妹が交尾する 開いては閉じる嘴がある 浜風が吹く 内海から武庫川に向かって 今日もきっちり 風が流れ