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運動会は生きるのに必要ない。では無意味なことなのか?

児童発達支援センターの運動会が終わりました。

以前は、障害の有無にかかわらず幼児の施設は「運動会」は恒例行事でしたが、園庭がない・小規模・訓練中心などなど様々な理由で運動会があるのが当然ではなくなりました。

noteやX界隈でも運動会って必要なのか?なんて話も時々出てきますよね。

いるのか、いらないのかではなく、必要か必要でないかという話になると、私は「必要ではない」と思います。

必要でないの理由は明確に、運動会をしないと生活に支障があるのか?生きることが困難になる程発達や集団形成に支障が出るのか?

って発想で考えるので、答えは「必要ではない」です。

では、「必要ではない」から「いらないもの」なのか?というとこれはまた違うのだと思います。

私は常々横に座っている児発管の職員には話しています。

運動会なんて、なくても生きていける。
そう考えるとた「かが運動会」である。
でも、「たかが運動会」だが、されど「運動会なんだ」と。

まぁ、意味が分かりませんよね。
日本語崩壊していますからね( ´艸`)

運動会ってめっちゃ大変なんですよ・・・💦
うちの運動会は、いろいろ考えに考えて、物を作って・・・
2か月前から練習を始めて、内容を練りに練ってぎりぎりまで喧々諤々しちゃうです。

子どもにとっても、特別な行事なので負担感があることは間違いありませんし保育士にとっても負担感は凄く大きいと感じています。

もう一度書きますが、運動会なんてなくたって生きていけます。
運動会なんて人生で全部経験したとしてもたった9回。
運動会をしないと人としてダメになるならば、世界の人口の半分以上はダメ人間の集まりになっちゃいます。(数字の根拠なし💦)

では、必要な活動ってなんでしょうか?

字の練習。
言葉の練習。
運動の訓練。
学習とかですか?

字が書けないと生きていけませんか?
言葉を話せないと死んじゃいますか?
運動が出来ないと、意味がない人生を送らないといけませんか?
学習をしないと明日が来ませんか?

まぁ、ちょっと屁理屈っぽくなりますが私たち人間が、家族として社会集団として生きていくって本来はそういうことではないのではないか?
人とのつながりを持ち、今日を生き明日を迎えることが出来ることことこそが大切で意味があることなんだと思います。

「運動会」がいるのか?いらないのか?って論争のテーマによく見るのが、運動が苦手な人がいるじゃないか、障害児にはきついじゃないかなんてコメントもよく見ます。

その通りだと思います。

注目すべきところは、そこなのでしょうか?

分かりやすくかけっこで考えてみます。

一番は凄いけど、二番はだめですか?
ビリはダメですか?
ってなるじゃないですか。

一番の子どもは事実足が速いから、みんなから「凄いね」って褒められるべきです。得意なことは伸ばすべきだし、自分の得意なことをこの機会におべるべきです。

二番の子どもは、次は一番になりたいって努力をするかもしれない。手が届きそうだから、一番の人に憧れるから頑張ろうとしますよね。

ビリな子どもは、恥ずかしいかもしれない。だから運動なんか嫌いって思うかもしれない。
でもさ、苦手なことを知らないといけない。自己覚知です。
運動会なんてなくたって運動は苦手って知っているっていう子どももいるでしょう。
ビリな子どもには自然とみんなが応援するじゃないですか。
確かに応援されると逆に恥ずかしいってなるかもですが、運動会の多くの人間から「がんばれー」って大きな声で応援される経験ってそんなにありませんよね。
ビリな子どもを「ダメ」にするのか「ちょっぴりうれしい」って感じさせるのかは周りの大人次第ではないでしょうか?

大人だって子どもだって、苦手なことに直面してやりたくない内容を目の前にして逃げたくなること沢山あるじゃないですか。
でも、乗り越えるじゃないですか。
乗り越えることが出来るって、周りの支えがあるからじゃないですか。

だから、今日を生き抜いて明日が来るじゃないですか

とても分かりにくいですけど、簡単に意味あるように見えることって実は表面上の上辺なもの。
無意味と感じるものに意味を見出すことこそが、本当に大切ことが含まれているのだと思います。

本当に大切なことって、当たり前すぎて私たちは見えなくなっていると私は感じます。

だって、今日の運動会とっても良かったし、ただ子どもがまっすぐ走るかけっこで感動できますからね。

みんなで作り上げてくれた運動会最高だった!



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