子どもは友達と遊ばないと不幸なのか?誰がそう決めたんですか?
これはある意味仕方がないこと・・・
と思いつつ書きます。
ってことは、これはぼやき?って奴になるのか??
まぁ、そんなことは良いとして書く
私は立場上も含めて、保護者や職員からいろいろな話を聞いたり、相談を受けることもある。
で、その内容なのだが例えばこんなことがある。
年長だけど、文字が書けるような練習をした方がいいのか?
友達と話をせず一人でポツンとしていて、かわいそうだ。
学校に行くまでに、座る練習をさせたいのですが。
って感じだ。
分かる・・・分かりすぎる・・・が、それって誰が決めたことなのか?
誰の基準で考えた悩みなのかってことですよ。
年長だから文字って何?
人の成長はグラデーションですよ、ある日を境に突然文字が書けるような練習が必要なことってありますか?
学校に行くと、文字の読み書きがあるからってことでしょう。
勿論、そうです。学校だからね。
あそこは、文字や数の概念などを机上で教える場所です。
当然です。
例えば、年長に文字の練習をしてスムーズに書くことが出来る子どもは、その土台を幼児期にしてきたものを形にしたって事でしょ?ただそれだけ。
それだけならば、文字を教えるプロの学校の先生にお願いした方がいいじゃない?
幼児期はそのための土台のしっかり培い、バトンパスをするのが仕事。
学校の為のミニ学校をするなば、教師を雇った方が良い。
そして、幼児期のプロの保育士は自分たちの仕事に意味を見出して、しっかり学童期へ繋がる意味を理解した方がいい。
友達がいなくてポツンとしてかわいそう・・・って何?
誰が誰に向かってかわいそうと思うのか?
友達と遊んでいることが必ず子どもの幸せで、個性を伸ばし、生きやすいのか?
もしかしたら、友達と息が合わず一人の時間が安心できるのかもしれない。
一人の時間を大切にして、何かを極めたいと子どもながらに思っているかもしれない。
子どもであろうと、人と付き合うって疲れることだってあるじゃないのかな?って思う。
どちらにしても、集団活動があり一緒にご飯を食べたりダンスをしたりと、子ども同士の接点は絶対にあると思う。
そのうえで、自由な時間に友達と遊んでいなけばダメっていう固定概念こそが、子どもを苦しめている事実もある。
家に帰ってきた子どもに「今日は誰と遊んだの?」「一人で遊んだの?」って一人でいることがダメっていうプレッシャー・・・
人がダメな人は、虫と戯れたり花や木々で自然を感じ取ったり・・・感性豊かな子どももいるじゃないかなって思う。
だから疲れる。
友達と遊ぶのか遊ばないのかなんて、子どもが決めること。
そして、大人はそれに対して同環境を用意するのかって事じゃないのかと思う。(環境って活動とかやり方仕方だね)
最後に座る練習・・・
あ・・・これ、今までに何度か書いたからいいけど。
無意味に座る練習を繰り返して、ポツンとずっと座れれる幼児はちょっと怖くないですか??
わくわくして、座って待っているとか
お話を集中してみているから座り続け居るとか
美味しいご飯をみんなでワイワイ話をしてついつい長く時間がかかるとか(要は座る時間が長い)
結局座る意味を持てる子どもは、身体的問題がなければ座る。
ぼやきまくりましたが( ´艸`)
私が言いたいのは、その悩みが子どもの悩みなのか?ってことです。
大人の、何となく周りの基準がとかそんなことに振り回されず、しっかり子どもに目を向け、手をかけ寄り添ってほしい。
その子ども願い=発達要求です。
そのことに気付けるようになると、文字を書きたくなる時期があるし、友達と遊びたくなるし、椅子取りゲームのように椅子に座りたくもなるのです。
物事が出来るようになるとか、力を発揮するとは複雑な力が結び付いてできるということです。
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