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[小説]「世界観」格差2/5
では、第二の世界観とは何か?
ひと言で言えば、自分たちの属している世界ではない、別の世界を思い描けるようになることだ。
資本主義国家の若者なら、かつては社会・共産主義に理想を見たし、国家権力の圧が強い国家の若者なら、西側の先進諸国に憧れるのだろう。
したがって、第二の世界観=○○主義ではない。外国語のようなもので、人によって違う。ひとつでも外国語を習得するとずいぶんと視野が開けるそうだが、そういうイメージだ。
新・第一と第二の世界観、比較するとこうなる。
新・第一の世界観とは、生まれ育った環境で経験的に獲得するもの。
第二の世界観は、知識や体験(海外生活など)として知った世界観で、そっちのほうがいいと思えるもの。
日本の戦後では、第二の世界観といえば、社会・共産主義が多かった。保守・愛国などは少数派だった。
そして、社会・共産主義は、新・第一の世界観を卒業するちょうどよいステップであった。
では、保守・愛国は、第二の世界観か? それともそうではないのか?
中身による。反米の保守・愛国なら、第二の世界観と云える。現実世界とは別物だからだ。しかし、対米従属なら現実の延長なので、第二の世界観とは云えない。
しかし、以上のことはせいぜい1970年代までの話しで、以降、左翼の人気はすっかり低迷している。
では、平成以降、人々は何によって第二の世界観を獲得したのだろう?
これは本来、若者に尋ねなければわからないことだが、オレの見るところ、さっき少し云った反米の愛国主義などは社会・共産主義よりも、もっと人気がなさそうだ。むしろ、増えているのは新・自由主義的な気分だ。
しかし、新・自由主義もまた現実に近いものなので、第二の世界観とは呼べない。学年があがって受験戦争に突入したようなものだ。学校制度そのものを問い直すものではない。
さっき少しふれた外国語の習得、特に外国文学を学ぶことは、第二の世界観の獲得につながると思う。海外生活もまた同様だ。
たとえば、「これが日本のやり方なのよね」などと感じられるようになれば、それが第二の世界観以上のレベルで生きているということだ。
それらの人たちは全体でどのくらいいるのだろう。2割はいないのではないか? かつての社会・共産主義に匹敵する間口の広さは、外語語にはない。
ただ、オレの見るところ、新・第一の世界観を卒業している人は、半数くらいはいると思う。その人たちは、何を手がかりに第二の世界観を獲得したのか?
思想とは呼べないが、アニメ、映画、小説などの創作物ではないだろうか。それらには別世界を描く傑作が多数ある。現実世界と違う世界観を知り、この世界を相対的に見られるようになれば、たとえそれがアニメの世界であろうと、第二の世界観が獲得されたということだ。
もっとも、アニメが好きでも、そんなものは空想の産物で、現実とは違う! と明確に切り離している人たちもいる。その人たちの場合は、アニメが第二の世界観にはなっていない。
余談だが、アニメなどの創作物が厄介なのは、陰謀論が多いと云うことだ。
社会・共産主義の場合は、社会で揉まれているうちに割と早期に目が覚めるが、陰謀論に深入りするとどっぷりと浸かることになる。共産主義には体系がある分、論破されることにもなる。
ところが、陰謀論はさまざまなもののごった煮なので、ある説が間違っていると気づいても、別の陰謀説に乗り換えることになりがちなのだ。陰謀論の中で、渡り歩くことになってしまう。
それに、そもそも陰謀論は感覚的なものだ。部分的には緻密に論証されるが、公的な資料は歴代の権力の手によるものであり、公的な資料だけで考えれば、結局はオモテの世界になる。だから、陰謀論に関心を持つ人は、感覚を重視せざるを得ない。しかし、感覚に頼ると、ひとりよがりになったり、仲間たちとの閉鎖的な世界になりがちだ。
要するに、陰謀論は第二の世界観の入り口としてはハードルが低いが、出る際には難しさがあるということだ。
繰り返すが、第二の世界観では、異なる考え方の人たちと話し合うことが出来ない。正しいことを教えてやるとか、相手の行動を変えようとする。自分が変わる気はまったくない。左翼や新興宗教の勧誘のような話しか出来ない。
こういうと、オマエは陰謀論を学んだことがあるのか? どれだけ真実が含まれているのか知らないんだろう! と反発されそうだが、ここで云ってるのは、世界観の話だ。
陰謀論……というか、真相を地道に追求されている方の中には、もっと上の世界観に到達している人がいると思う。しかし、そういう人の成果をのぞき見て、「それこそ真実だ! これを知らないやつらはクソ野郎だ!」と思ったのなら、それは第二の世界観で生きているということなのである。
共産主義者の中にも愛国主義者の中にも、新興宗教の信者の中にも、自分の信じていることだけが真実だと思い込んでいる人たちはたくさんいる。
辛辣に云えば、新・第一や第二の世界観で生きている人は、攻撃的であり、危険ですらある。純朴などと思うのは、とんでもない誤解だ。彼らがやさしくなれるのは、価値観を共有する仲間たちと一緒に居る時だけである。
そのようなやさしさなら、マフィアにもあるというか、マフィアや戦時下の軍隊の方が色濃くあると思う。組織の内側は一般世間よりもよほど情愛が深く感動的なのだと思う。身内にはすごくやつしいというやつだ。しかし、そのような人たちが他者には鬼と化す。文字通り殺人も厭わない。
世界観の問題を無視して、そこに友情があるとか同胞愛があるとかで感動すれば、とんでもないことになる。プロパガンダというのは、そのような印象操作を用いて、戦争や当時の政府の決定を美化するような行為を云う。それに乗せられた人は、自分も鬼になるのだ。
話し合いによって互いの理解を深め、よりよい道を協力して探っていくほうがいいと。
もし、そう思うのであれば、自分も相手も一人でも多くの人が第三の世界観に到達する必要がある。
異なる価値観や生き方の相手を尊重したり、共存していこうという感覚は、この次の第三の世界観によってはじめて獲得されるからである。
では、第三の世界観は、いかにして獲得されるか?
つづく