身分制の復活[幻聴ラヂヲ]
今日も聞こえてきたどこかの星の怪電波
今回の話題は「身分制度の復活」。
といっても、語り手は特権階級やエリートではありません。
自分の生きてる世界をなんとか理解しようとしている底辺の自問といったところでしょうか。物事を悲観的、批判的に見る損な性分のようで、イタイところは多々ありましたが、同じような性分のわたしとしては、他人事とは思えなかったのでメモしておきます。
◇
すべての星民に同じ法律を課すのは時代遅れだし
共産主義的である!
強者がそんなことを云い出したそうである。
どうして我々優良者が、愚かで怠惰な大衆と
同じ法律に従わねばならないのか?
ここまではっきり云われる気持ちがいいくらいだ。私有地の中で車を好きに乗り回して良いように、少なくとも私有地では自由にやらせてくれ。一般人には何の迷惑もかからないではないかと。そう云いたいらしい。
ちなみに、すべての星民に同じ法律が課せられるようになったのは近代以降のこと。それ以前は身分毎に違っていた。なので、属性によって法律を分けるという発想は突飛ではなく、そんな時代の方がはるかに長かった。自分の言葉が法律だと云い放つ王様までいたくらいだ。
それがどうして、まがいなりにも一本化されたのか?
一般的には、文明が発展したとか人権意識が広く認識されるようになったとか、そんな説明がなされると思うが、それが本当かどうかが、これから試される。
何しろ強者が求め出したのは身分制度の復活だからだ。もし文明や人々の意識が進化したのなら、昔には戻らないはずだが、どうなることか。
もっとも、こう云っても驚く人は少ないかもしれない。身分制度があろうがなかろうが、格差があるのは厳然たる事実だから。
身分制度の復活? バカなことを云うな! と猛反発するのは、平等とか民主主義とか人権とか、そういうものが本当にあるとか、あって当たり前だと思い込んでる人たちだけかもしれない。
ちなみに、法律が一本化された理由…… 文明の発展や人権意識の浸透とは違う、別の理由とは何か?
強者の発展段階に応じて制度が変化したという見方があるらしい。ざっとふり返ってみる。
中世から近代の変わり目に、強者による土地の収奪が行われた。囲い込みだ。しかし、強引に奪ったものは強引に奪われる運命にある。既得権益者としてはチカラ以外に所有を担保するものが欲しい、
証文とか権利書とか、そんなものはあったが、法の外で生きてる者たちには紙切れでしかない。かつてはそんな連中がたくさんいた。囲い込んだ者たちは、そこを何とかしようとした。法を皆に守らせようとしたわけだ。法治国家になれば、弱い者の財産も国が守る、そう宣伝した。
そんなのは撒き餌のようなもので、強者の莫大な資産を正当化することにこそ真の目的があったのだが、成功した。
思えば、近代とは不思議な時代である。
中世が暗黒時代だとかカルトの時代だとかいうが「神秘的トリック」が「言葉巧みな詐欺」に代わったようなものだ。「科学」が「神秘」を脇にやり「大衆のドラマ」が「神話」を流行遅れにした。
大衆ドラマの代表は「愛星心」「星民星家」だ。ものすごい格差をそのままにして「我らは同じ星の人間である。皆、一致団結して祖星のために戦おう!」とぶち上げたわけだが、大衆はそれに魅了された。「愛星心」の虜になった大衆は命さえ捧げた。
オレたちからむしり取っているのは、ヨソの星ではなく、この星のオマエたち強者だろ! と指摘した者たちもいるにはいたが、魔女狩りのように狩られた。
そうして星民星家と戦争の組み合わせが世界を席巻した。特権階級にとって、戦争ほど荒稼ぎが出来、かつ強権を行使できる機会はほかになかったから。戦争の脅威なくして星民星家は存在できず、戦争もまた星民星家あってはじめて出来るものだった。
戦争はどんどんエスカレートし、星と星との戦争から、いくつもの星の連合と連合との戦い、すなわち銀河大戦へと拡大した。ここでまた新たなブレークスルーが起こる。
連合星参謀本部の指令が、各星の軍隊を指揮できてしまったのだ。連合星本部の地位が星の政府を上回る、その道筋がついたのである。
強者の次なる発展段階は、銀河連合の要のポジションを抑え、その上で銀河連合の権限を拡張させていくことになった。
今の銀河はこの段階にある。先だってのパパデミックにおける各星の対応を思い出して欲しい。まるでマニュアルがあるかのように、近代星は揃いも揃って同じ対応をした。代理戦争を繰り広げている両陣営も、激しいつばぜり合いを繰り広げている二大強国も同じことをやった。
銀河連合本部による全銀河の支配体制は、すでに完成の域に達しつつあると見てよい。だからこそ、強者は本性を隠さなくなったのだと思う。
「法の下の平等」はそもそも宣伝文句だったし、適用でも、かなり差をつけてきたので、今さら変える必要があるのか? という気がするが、コソコソやるのが嫌になったのかもしれない。超高級車をこれみよがしに乗り回すように「違い」を見せつけたくなったのだろうか。
ここでお断りしておくが、この番組は、強者を弾劾するものではない。弱者が強者に向かって何を云おうと、向こうは聞く耳など以てはいないからだ。そんな甲斐のないことをするつもりはない。
自己啓発ではないが「他人を変えようと思うな。自分が変わりなさい」という趣旨で発信している。つまり、こういうことだ。
強者が支配体制を盤石のものにする間
我々弱者は少しでも進化したのか?
近代以降、いったい弱者は何をやっていた? 手に入れたことと失ったものを比べてみるがよい。手に入れたものの多くは、強者が販売したものではないか? 気がつけば食べ物も愉しみも、人生を捧げた代価であがなうしかなくなったではないか。柵の外のこと、誰が牧場を運営しているのかということは考えないようにして、ひたすら弱者同士の競争に明け暮れる……。
要するに、強者が世界を作り変えている間
弱者はひたすらそれに順応してきたわけだ
そりゃあ、格差は拡がる
煽るような云い方をしてしまったが、わたしは共産主義者ではない。労働者に戦えとは云わない。弱者は弱者の戦略を立てて行動する必要がある、と思うのである。
弱者の戦略とは、共同体を作ろう、警戒を怠るな、襲われる前に逃げろ!だと思う。
強者と話し合えば、強者は弱者から奪うことをやめるか?
そんなことはあり得ない。彼らは奪い続ける。一緒にいれば、必ずそうなる。ライオンは腹が空かないと襲わないそうだが、強者はいくら資産が積み上がっても、奪うことをやめはしない。
奪う? 人聞きの悪いことを云うな!
オレたちは大衆の欲しがるものを売ってやってるだけだ!
それは合法的、正当な商行為だ!
強者に云わせれば、自分では何も考えられないのに、あれもこれも欲しがる大衆が悪い~ ということになる。あの手この手で、買うように仕向けていること、中毒にさせていることに何の反省もない。大衆は彼らにとっては家畜のようなものであり、管理して成果を得る対象なのだ。
強者からは離れろ! 一緒にいれば、いずれ食われる
強者が襲ってこないのは、他の弱者を喰らっている時だけだ
◇
今回の怪電波は以上です。かなり切迫した状況のようですが、最近の地球もかなり不穏で、明日のわが身かもしれません。
しかし、共感しつつ、疑問に思ったこともあります。逃げた方がいいとして、逃げ場があるのか? ということです。およそ人が暮らせるような場所にはすべて管理が及んでいるでしょうし、辺境でサバイバル出来る人はアスリートのような人たちだけでしょう。町育ちの年寄りには無理です。
ひじょうに厳しい事態であることは確かだとしても、若い人と年寄りでは生き抜く道が違うかもしれません。年寄りに希望はあるのでしょうか?
一つ思い浮かんだのはフランクルの『夜と霧』。
苛酷な収容所で生き延びることが出来た者に共通していたことは何だったか? それなら年寄りでも不可能ではありません。体力でも精神力でもなく、自然と波長を合わせるようなことですから……