[幻聴ラヂヲ]義の人…
今日、聞こえてきたのは、これまでにも何度か聴いたことがある宇宙人の声だった。カンセン予防の研究者だ。仮にキョウ先生としておく。自分自身のことも含めて素直に本音で語る人で、その人柄に惹かれて、以前から時々聴いていた。
ところが、そのキョウ先生の星でもパパデミックが起り、さすがのキョウ先生も歯切れが悪くなった。「ウソはつきたくありませんが、この件に関してまだはっきりしたことがわからないので…… 」。
もちろんそれはキョウ先生に限ったことではなく、国とマスコミのリードに疑問を挟むような専門家は少なくともマスコミには皆無だった。そうやって専門家の大多数が口をつぐんだ中で、「それは危険です」「これが最善の方法です」、世界中の人たちが云いなりになってしまった。反対意見どころか、他の選択肢も示されることはなかった。
「これではダイホンエー発表と同じではないか」 科学のことがわからなくても、そこに違和感を覚える人もいるにはいた。権力の恐ろしさを知っている者たちは本能的に自分で調べ始めた。
すると、世界各地に別の研究があるとわかった。我々が知らされている医療の常識は数としては多数派の見解だったが、理論的には甲乙つけがたいほかの説もあったのである。しかし、少数派の学説が一般人に知られることはなかった。そういう仕組みが出来上がっていたのだ。
敢えて異端の研究者たちと呼ぶが、確かにその数は少なかったが、かつてはもっと「いた」ことも分かった。彼ら彼女らはどうしたのか? 揃いも揃って突然死や事故で亡くなっていた。ある病気の問題について告発しようとした研究者グループは、全員揃ったところで事故に巻き込まれた。結果、その告発は未遂に終わった……。
キョウ先生、まさか医学・医療の世界にそんな邪悪な一面があるとは思っていなかったらしい。仮にあったとしても、ごく一部の病気や治療法についてのスキャンダル程度だと。その程度の認識しかなかった。
ところが、世の中、急速に息苦しくなっていった。ロロナやククチンについて批判的な意見を口にすると激しく攻撃される。この時点ではキョウ先生断定的な発言はまだ控えていたのだが、それでも「反クク」のレッテルを貼られた。
これは慎重に行動せねばならないと気づいたキョウ先生、かつて師事していた教授に相談した。恩師は異端ではなく、体制側のど真ん中、もっとも権威あるメンバーの一人だった。その恩師の忠告が「勝手な真似をしたら消されるよ」だったという。
「勝手な真似」とは、筋を通さないで告発することだそうだ。キョウ先生は、アドバイスにしたがって、しかるべき筋に報告書を提出した。内容としては告発だ。
ところが、見事にもみ消された。安っぽいドラマのようなことが本当に起こった。反論されることもなく却下されることもなく黙殺されたのだ。
その間、カンセンもククチンも収束するどころか、延々と継続された。当然、被害者も続出し、おかしいと声を上げる人たちも増えていった。
が、悲しいかな素人では科学的な反証が出来ない。そうすると、何を喋ってもインホー論にされてしまう。
しかし、証拠は無いわけではなかった。キョウ先生に云わせれば、研究者なら、簡単に手に入る材料だけでも容易に問題に気づけるのだそうだ。
要するに、存在していなかったのは「問題」ではなく、「問題を一般人に報せる専門家がいなかった」のである。
キョウ先生は腹をくくった。自分の知り得た問題を公表することにしたのだ。その星にもインターネットのようなものはあり、個人でも発信することは出来た。キョウ先生には大学の先生という肩書きもあったし発信内容も科学的なものだったので、疑問を感じていた人たちにはすぐに共有された。
が、政治家や官僚や大企業の人間の反応はなかった。行動を起こすどころか口も開かなかった。まったく知らなければもそんなことにはならない。素朴なコメントくらいは出てくるはずである。今の時代、SNSをまったくやってない者の方が少ないのだ。
この件にはふれないほうがいい、そんな暗黙の了解が相当、広範囲にあることがわかった。これは実に不気味なことだ。カンセンの専門家である自分が知らないのに、関係者の多くが「タブー」を共有しているというのは一体どういうことなのか。キョウ先生だけが仲間はずれにされて、回覧が回されていたのか?
そうではあるまい。大多数の人が読んだ「空気」を、変わり者のキョウ先生は読み損ねたのである。「空気」が読めなかったどころか、「これは放置できない!」と、逆に反応してしまった。
そんなキョウ先生に声をかけてくれたのは海外の団体だった。
海外には医療の闇に気づいて、すでに活動を開始していた団体があった。そこに招かれてキョウ先生は自説を説明し、同時に巨悪の実態を教わった。
驚くべきことに、不正を働いていたのはごく一部の者たちではなかった。大企業、検査会社、監督官庁、そして国際機関に至るまで …… だったのである。恩師が云ってくれた「消されるぞ」は現実だった。
しかし、キョウ先生は「もう遅い」と思った。
今ここで口をつぐめば、命までは奪われないかも知れないが、大学は追われるだろう。すでにそう示唆されていた。いや、そんなことはいい。口をつぐめば、自分もまた共犯者になってしまう。道義的にはそうなる。それでは今後の人生、まるで罪を隠して生きる逃亡者だ。
「ここまでくると、進むも退くも地獄なんです……」
そういって、キョウ先生は少し笑われた。幻聴なので見えないのだが、さみしい笑顔が浮かんだ。
「ボクがどうしようと、結局、世の中、何も変わらないんですけどね」
キョウ先生はそうも云われた。
じゃあ、一体何のためにライブ配信をやったのか?
今さら引き返すことしないと云いつつ、キョウ先生は「今後の活動をすべてキャンセルさせていただきます」と云われた。どういうことか?
いよいよ危険が迫ったので一時的に身を隠すことにされたのか、それとも地下に潜って活動するということか……。
いや、詮索はすまい。こちらが考えるべきことは、自分に、キョウ先生のような「義の人」に救われるだけの価値があるのか? ということだ。
「ボクがどうしようと、結局、世の中、何も変わらないんですけどね」というキョウ先生のつぶやきは、我々大衆には期待してないということでもある。
「義の人」は誰かのためではなく自分の納得のために正義を選ぶ。国のため、国民のためを連呼する政治家とまったく対称的ではないか。
いや自分だってそうだ。果たして己の納得を基準に仕事をしているだろうか? そこを封じて生活のため家族を養うため、などと開き直ったりしていれば、そのアクが流れ流れて巨悪の元に集まる。
もしかしたら大衆というのは支配されるだけの存在ではなく、巨悪を成り立たせている根本でもあるかもしれない。
そう考えると、キョウ先生の「ボクがどうしようと、結局、世の中、何も変わらないんですけどね」という発言、自分の納得のために行動することにしたという決意表明は、それこそが「巨悪」との決別宣言であったのだ。「微悪」は自分自身の中にある。
自分は誰のためでもなく自分の納得のために行動する…… 言葉だけ聞けば、自分勝手な「欲望」と誤解されかねないが、「欲望」と「良心」はどう違うのか?
その意味では、「脅し」は手っ取り早い試金石か。「欲望」なら脅されれば簡単に萎むから。相手は「絶対に後悔させてやる!」と迫ってくるからだ。損得を考えると、まったく割が合わない。
それに比べると「義」に勘定は無い。何かを得るために行うのではなく、正しい道を歩くこと自体が目的だからだ。「義」には途中もゴールも無い。寿命で死のうが殺されようが同じなのである。
このようなことを口先で云うのは恥ずかし過ぎるが、
たとえキョウ先生が、近々スキャンダルや、事故に巻き込まれることになったとしても、あるいは、転向させられることになったとしても、それはそれだ。
今のキョウ先生は「義の人」である。自分と同時代に「義の人」が存在していることに身震いがした。まるで自分も伝説の世界に紛れ込んだような気分だ。多数による「迫害」まであるのだから……
本気でそう思った。
今度こそは、真実だと思った。
ところがその後、流れてきたのは コマーシャル?
まさか……
まさか まさか?
………… ………… ………… …………
いや、キョウ先生がどうというのではない。疑いの心を持てば疑心暗鬼の地獄になるということだ。ダジャレではないが、「義」とは大違いである。「疑」の沼に沈まぬようにするには、自分のやれることをやるしかない。
「疑の人」になるのか「義の人」になるのか、それを決めるくらいの自由は、まだこの星にもある。
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