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題:三島由紀夫著 「花ざかりの森」等の作品を読んで

「花ざかりの森」は三島由紀夫が16歳の時に書いた短編である。記憶をたどっているのか、海を眺めて時代を駆け巡る個別の女たちの物語である。輪郭が薄くて詩的イマジネーションを描いているとも捕らえることができ、才能を感じさせる作品である。「百万円煎餅」は百万円と書かれた煎餅を購入して食べ歩きして、屈託なく街歩きを楽しんでいる若い夫婦は、意図的に記述されていないが、エロショーを客前で演じて暮らしを成り立たせている。なお、登場人物の名前を夏目漱石の作品から引用している点が関心を引く。建造は「道草」の健三、清子は「明暗」、それにおばさんとは世話焼きの「坊ちゃん」の婆やのことでないだろうか。「百万円煎餅」の清子夫婦は子供を欲しがっている。でも「道草」の健三は清子夫婦が望む赤ん坊を既に抱いていて、妻から揶揄されている。余分な話をすると、漱石はなぜか大作家たちに忌み嫌われている。谷崎潤一郎は随筆で「明暗」を激しく批判していたし、大江健三郎は軍国主義を批判した小説「水死」で、劇団員が壇上から人形を投げ捨て「こころ」を野次っていたして逆に批判され、公に釈明せざるを得なくなった。三島由紀夫は安倍公房との対談で森鴎外と比較して漱石の傍若無人な作品および正確性を欠く言葉を批判していた。こうした漱石批判を、江藤淳ならば、何と評するだろうか、
 
さて、他の作品では、「憂国」は結婚したてのため、二・二六事件に誘われなかった中尉とその妻との、事件後の狂おしい交合と中尉の割腹自殺を描いている。自殺の場面の描写は詳細であるが、交合の場面のエロス性は抑制的である。というより過剰であるとも不足とも取ることができる。サドやマゾッホから比べれば不足であるだろうし、川端康成や谷崎潤一郎と比較すれば過剰である。なお割腹場面を読むと、モーリスパンゲ著「自死の日本史」に書かれている武士道における死を思い出す。この著書も相当詳しく自死の手順と肉体の状況を記述している。この作品を参考にしなくとも、こうした描写は推測にて創造することができる。なお、「憂国」」はあとがきにて、本人がとても褒めている短編である。情熱を削いで客観的に記述しようと努めている。つまり、三島は死に際を冷静に描いて幾分酔いながらも、そうした素振りを見せることは無い。でも、自らの死を覚悟していたのかもしれない。
 
他の中編小説「美徳のよろめき」、「獣の戯れ」、「午後の曳航」などは、基本的に不倫小説の読後感の残らない作品であり、「夏子の冒険」や「潮騒」は楽しんで読める娯楽作品である。珍しく「潮騒」は純潔な恋愛を描いている。「鏡子の家」は失敗作品と言われているが、そのようである。女主人公なる鏡子を通じて、男四人の異なった思想を紹介しようとしたのかもしれないが、分裂した内容で四人は相互に相関などしない。鏡子が個別に対応するだけである。確か、最後に一番若い男に体を許した後、家に帰った途端、鏡子は飛び出てくる犬に迎えられ、元の日常を取り戻されることが作為的である。「近代能楽集」では知性を使いすぎて、もしくは駄洒落を好んだのか、返って平凡な作品になっている。例えば「熊野」では、母の病気と言い里帰りするが、男に会うためだったとの筋書きは新鮮味はない。
 
戯曲は「サド侯爵夫人」を読んだがとても良い作品であった。三島には会話文を駆使して、説明調に陥りがちな小説に代わり、情緒・感情をより豊かに表現できたのかもしれない。「金閣寺」、「仮面の告白」などの有名な作品は記憶が曖昧で感想の記述を省きたい。なお、代表作「豊穣の海」では、「春の雪」の高貴な身分の男女が織り成す恋物語がとても良かったと記憶している。輪廻転生の結末として、「天人五衰」では本田が最後の締めくくりに、「もう記憶のたどり着かないところに来た」みたいな言葉で終わっているのが印象的であった。本来ならば、この「豊穣の海」の全四巻だけでも読み直して、三島由紀夫の作品の感想文を書くのが良いのかもしれない。もし、他の作品も含めて読む機会があったならば、この感想文を書き直すつもりである。
 
読んだ作品をほぼ並べたが、「花ざかりの森」など三島由紀夫の短編は、どうもどこか何かが欠けている。つまりは三島の意識が物語を超えたこの世界の全体を把握しているのに、その意識の一部、切れ端を投げ出して書いているようにみえる。無論、この話は長編にも通じていて、長編では、なぜか切れ端は継ぎ合わされて見える。きっと、物語の全体を組み立てた規則正しい枠組み・設計図に基づいて記述しているために違いない。三島の作品は、自らの倫理観を下敷きにし、言葉一つさえも厳密に選択した美的感覚のうちに文章を起こし記述しているのが特徴的である。このためか、自律的かつ説明的な文章に感じられるのだろう。稀に、意図的に「百万円煎餅」のように必要事項の記述を欠如させるユーモアも、彼は持ち合わせている。といより、他作家を模したエロショーを描写するほど無神経ではなかったということである。
 
なぜ三島は、世界の全体を把握しているのに短編は彼の意識の一部、長編においても切れ端を継ぎ合わせたようにしか見えないのだろうか。結局、三島が把握している世界とは、欠如に満ちているためである。充満していながら空虚に矛盾に満ちて存在しているためである。世界は作動し蠢き阿鼻叫喚を発してそれらを五感で捕らえているのに、三島には欠如もしくは空虚としか感じられなかったのである。それはこの世界を捕らえる三島自身の心の内側から起因している問題でもある。皇国史観や政治論争に文化・文芸論争など数多く発言し行動を起こしても、現実に実在しているこの世界を、肌で感じ取る実感を三島は持つことができなかったのである。このことを言い換えれば、書くべき小説のテーマを持ち合わせていなかったということである。三島の作品群を読んで感じられるのは一貫したテーマの欠如である。先にあげた漱石では幕末から明治への文明開闢の苦悩、谷崎では肉体の醸し出す実在感の匂い、大江では魂と魂を入れる体制との格闘がテーマとなっている。敢えて言えば、三島のテーマとはエロスと死なのだろうか。でも、この重いテーマは作品を描く世界観として把握できていても、三島の作品群では、切れ切れにしか描けずに、この切れ切れを継ぎ合わせるしか小説を記述させる方法を持たないのである。この三島のテーマについて次に説明したい。
 
さて、私は三島の小説は通俗小説もしくは大衆小説と思っている。漱石も大衆小説を描いているが異なるテーマ性が文体と相まって読者層への響きが異なる。従って、三島の文学については、横溝正史の小説と共に語りたい。両者共に通俗的な娯楽作品を書いて、たくさんの読者を得て、共通する根源的な体験・思いがあるためである。隙がなく修飾語の豊かな三島由紀夫の文章と横溝正史の長々しく冗長した文章との違い、物語の導入や結末を含め、起承転結に意外性を含ませている三島由紀夫の小説と、殺人を最後まで成し遂げさせて解決する横溝正史の謎解き探偵小説とを比較すると、当然のことながら三島由紀夫の方が質的に高い。では、なぜ横溝正史を選んだか。エロスと死が共通して浮かび上がってくるためである。そして、彼らは戦争から死を免れ死んでいった者たちに罪の意識を感じていたに違いない。戦争への実際の参加・不参加に拘わらず、戦争によって生じたこの日本の退廃を自らの命の中に深く刻み、空虚・虚脱感を抱えながらも、小説の創作によって新たに生き続ける営みを行っているためである。そして日本の心身共なる復興を強く願っていたに違いない。でも、三島は心の内に自らの死の望みを強めていき、横溝は連続殺人による死の記述を深めていく。そして、彼らは小説の記述に、心と身体の奥底からのエロスと死とを同居させ発現させていくのである。
 
無論、三島由紀夫にとって死とは、モーリスパンゲ著「自死の日本史」に書かれている武士道における死である。罪を犯しながらも尊厳を持った自死である。終戦後、三島は戦争に参加できずに国のために戦わなかった敗北者であるため、既に述べたように死の望みを強めたかもしれない。でも、彼の役割は、やはりまず死ぬことよりも、敗戦国日本を再生するために戦わなければならなかった。死の希望を胸に秘めながら、思想や小説による発信を、日本の国の体制の再構築の発言を、自らの役目として自覚して生き続けなければならなかったのである。それが、死の欲望を実現せずに生き続けることにも繋がっている。ただ、ある日三島が自死したのは自らの思想を拡大するため行なわれたのか、元々秘めていた死の希望を実現させたるめなのかは不明である。たぶん、小説も含めて成すことがなくなったためかもしれない。私は、「豊穣の海」の作品の完成が彼の創作欲望を断ち切り、同時的に私的な自衛活動「盾の会」の決起を呼び、死を自らの内に呼び込ませたと思っている。この辺りの詳細な研究は仔細に行われていて、結構な論文が発表されているに違いない。でも、三島の死の発現は、川端の「禽獣」に描いているような陰湿な死の欲望よりも乾いていて好感が持てる。敗北者ではなく自己発現としての死の決行とも捕らえることができるためである。
 
次に死とエロス性について述べる。三島由紀夫は「サド侯爵夫人」のあとがきで、女の優雅、貞節等々は、ジョルジュ・バタイユの「エロスの不可能性」へ向かって敗北してゆくと述べている。バタイユにとって「エロシチズム」とは死すべき個体の人間が、子孫を残すために纏い結びつけているものがエロスである。三島がバタイユの影響をどの程度受けたかは定かではないが、根底の思想が異なっていることには注意が必要である。小説の中で、三島は不倫である不毛なエロスを描くことが多い。純粋な愛のエロスを描いたのは「潮騒」くらいである。無論、子を産むためにエロティシズムはありながら、誰もそんな目的のためにエロスを描き浮彫りにはしない。死に向かって敗北していくものでもない。三島は、「憂国」にて表現される愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合作用は私がこの人生に期待する唯一の至福である、と書いている。従って、三島が述べていた「エロスの不可能性」とは、もしや。エロスが発揮できても、生命が連続性を持たずに消滅していくことを指しているのかもしれない。「憂国」の激しい交合は死へ向けた華麗な最後の舞いなのである。
 
横溝正史は三島の不倫やエロスを超えて、凌辱、強姦の場面が多々ある。無論、純愛も含まれているが、悲惨な性交渉によって生まれた子供が主役の座に登場してくる。戦争の傷跡と村の古くからの因習や闘争が時を経て現在の殺人へと置き換わってくる。横水正史のエロさは三島由紀夫とは異なった、バタイユの「エロティシズム」に関連し、なぜか個体なる人間の連続性に繋がっている。ただ、この連続性が殺人事件を起こしてしまう。このように、両者ともに通俗小説を書きながら、その小説の質やエロスに違いがありながら、同様に戦争の傷跡を負っている。三島は何も成し得なかった欠如の意識として、横溝は殺人を侵す罪として、作家の胸底に深く潜んでいたと思われる。なお、三島のエロスは横溝のエロスに比べて何度も言うように、表現する言葉を繊細に選択している。凌辱、強姦という言葉の使用の有無ではなくて、単なる不倫であるためでもない。三島の文章表現が理路整然として性的な心情や行為は、微細さを含ませながら婉曲的かつ直接的で、彼の倫理観に従った文章表現であるためである。三島は、「サド侯爵夫人」のあとがきで、もっとも下劣、もっとも卑ワイ、もっとも残酷、もっとも不道徳、もっとも汚らしいことをもっとも優雅なことばで語らせることに自信があったと述べて、エロスの表現に自信を覗かせている。ただ、この自信は彼の文章と言葉の倫理の内から逸脱することは無い。下劣と言うよりむしろ上品なのである。
 
三島は言う汚らしくて優雅な表現とは、例えて言うなら、ジュリエットやジュスティーヌの嗚咽と卑ワイな言葉の代わり、上品で優雅な規律正しい言葉を使うのである。たぶん、汚らしくて優雅な表現とは、私の知る限り、ポリーヌ・レアージュの描く「O嬢の物語」が最高である。何よりも、愛する男に捧げるために書いたという動機が切なさを感じさせる。さて、最後に言うが、三島由紀夫の死とエロスなどの思想を、より詳細に記述する必要を感じない。なぜなら、先に三島の小説のテーマを死とエロスではないかと述べたが、彼のテーマは事件ものを含めて、その時々に作り出すものだからでもある。何度も言うが、結局三島は記述すべき小説の主なるテーマを持っていなかったと言うべきである。彼はこの世界を把握していたが、それは空虚であり、かつ彼はこの世界では弱者であり、除け者でもあり、常に死が彼の心の内に秘めていたのである。無論、日本を含めた世界の文学や文化に時事や自己の精神などを含めた小説はテーマとは言えない。テーマとは作家の内に内在して一貫して貫く重い課題なのである。言い残すとすれば、それ以上に重要なのは、三島の小説そのものが現代に通用して、何らかの問題を提供して議論を巻き起こすか、既に議論を巻き起こしていて活発に議論されいるかである。彼の作品がまだこれらを解く鍵として読み続けられているかである。また、私が本当に三島の作品を読んで、新たに感想文を書くかである。
 
以上

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歩く魚
詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。

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