J-P・サルトル著 白井浩司訳 「嘔吐」を読んで
時々、以前に読んだ本を読み返している。でも、当時は非常に感激した作品でも色褪せてみえることが多い。ところが、びっくりしたことに、この「嘔吐」は今読んでもとても良いのである。なぜなのだろうか。しばらく目を閉じて考えてみる。実存の不条理を描いたこの作品が傑作なためなのだろう。ただ、実存の孤独を、実存そのものの醜悪さを、主人公ロカンタンがマロニエの木の根に見出したためではない。
以前に、カミュの「異邦人」の感想文を書いたことがある。異邦人の甘い出だしの文章「今日、ママンが死んだ」から始まって、母の葬儀での無感情、恋人との葬儀の翌日から始まる肉体関係、日照りの暑さのために拳銃を発射しアラビア人を殺害、死刑を宣告された主人公ムルソーの祈りの拒否、罵声を浴びた死刑執行の希望など、この世界への無関心というより、この世界からの追放を望んだ主人公の傍若無人さが底流を流れている。でも、隔絶しようとしても離れることのないこの世界との関係性の甘さが潜んでいて、なぜか読み手に歓喜を運んで込んでくるのである。まさしくムルソーはこの世界に無関心を装いながら関係性を結んでいて、心の内の孤独さに歓喜を湧き出させてくる。
それに対して、「嘔吐」の主人公ロカンタンはこの世界との関係性を持とうとしている。ただ、その関係性は打ち砕かれ、この世界から去ろうとする、というより孤独さの内に押し込められて、死も生も作動することなく、この雑漠とした世界に単に生き存在しているだけである。本書「嘔吐」は主人公ロカンタンの日付の無い日記形式で記述されている。ロカンタンはド・ロルボン侯爵の研究をするためブーヴィルに三年間滞在しており、本小説はその時に記述された日記の断片を発表するという形式を取っている。
ロカンタンは意識の過敏さとともに街中をうろついている。彼の文章は次から次へと意識を鮮明に描き人物と場所を転移させていくが、どうもグルグル回りをして徘徊しているようでもある。簡単にあらすじと登場人物を紹介したい。彼はロルボン侯爵研究のために図書館通いをして、独学者と知り合いになる。「鉄道屋さんの店」の女給マドレーヌが蓄音機を聞かせてくれる。女主人フランソワーズとは性的な関係を持っている。またアニーという何年も会っていない恋人もいる。これ以上の人物記述は難しすぎて止めたい。ロルボン侯爵に関する研究が入り混じって記述されているためだろう。あまりにも風景と心理と憶測が入り混じり、唐突に居場所を転戦させる文章が記述されているためである。
アニーとは何年か振りに会う、太っているが魅了される。でも、情熱や完璧や特権状態について言い争ってしまい、既に恋人がいると言って彼女は肉体関係を持たない。彼女は列車に乗って人生を再び航海し始める。無論、ロカンタンと別れることを後悔はしていない。「鉄道屋さんの店」の女主人フランソワーズは肌が乾燥しているため、本当は若いマドレーヌの方が妖しく彼は惹き付けられている。独学者とはきっとヒューマニストである。少年の手にそっと触れて、コルシカ人に助平野郎と罵られて殴られる。血を流し、ここに戻ることはできないと言い去る。また、ロカンタンも下宿屋のマダムにパリに移ると告げる。彼は「鉄道屋さんの店」で、マドレーヌにレコードをかけてもらい女の歌声を聞いている。
本小説には隠喩とも言える哲学用語が用いられている。「吐き気」と「実存」と「事物」などである。題名の通りに「嘔吐」である。ロカンタンが「吐き気」に捕らわれる状況を調べて比較したいが止める。もはや、たぶん、意味は決まっているのだ。「吐き気」とは不意に「実存」が「事物」に襲われる感情の不意打ちである。もしくは「実存」が意味を失わせる唐突の倒錯である。実存の無意味さではなく虚偽そのもの表出である。公園に行きロカンタンは事物の真っただ中に在る。彼は事物がこうも身近にいることに我慢ができない。そして吐き気は病気でも一時事的な咳込みでもなく、私自身でであると気付く。そしてロカンタンはマロニエの木の根を見るのである。本小説の最大の山場である。ここの文章を一部引用したい。
『実存はふいにヴェールを剥がれた。それは、抽象的範疇に属する無害な様態を失った。実存とは、事物の捏粉そのものであって、この樹の根は実存の中で捏ねられていた。というか、あるいはむしろ、根も、公園の柵も、ベンチも、芝生の貧弱な芝草も、すべてが消え失せた。事物の多様性、その個性は単なる仮象、単なる漆にすぎなかった。その漆が溶けて怪物染みた、柔らかくて無秩序の塊が――恐ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。・・・私たちは誰も彼も、そこにいることの理由を少しも持たなかった。それぞれ実存するものは、恐縮し、なんとなく不安で、互いに、互いに他の物との関係において余計なものである、ということを感じていた。〈余計なもの〉それだけがこれらの樹々、これらの柵、これらの小石の間に私が居てることのできる唯一の関係だった。・・・私は永久に余計な存在だった』
この実存の記述は卓越している、素敵な文章である。しかし、実はサルトルの思想はサルトル自身を乗り越えているのである。サルトル著「実存主義とは何か」で、実存とは未来に投企できる存在で、ペーパーナイフを例に取り、実存は本質に先立つとしている。物を切るというペーパーナイフの本質がナイフの存在に先立つのとは異なり、存在が本質を切り開き未来に投企できることこそが、実存なのである。実存主義が「死は誰も代わってくれない」と孤独を強調しながら、未来を切り開くことのできる可能性に満ちた存在であることが重要である。この「嘔吐」の実存よりも、より、豊かに未来に向けて生きていけるのである。そして、手段を持たない実存主義にサルトルは共産主義に近づき、共産主義を実存主義の達成手段とする。このサルトルの晩年の策は苦し紛れで見苦しくもある。
さて、本小説「嘔吐」は傑作だと先に述べた。この実存を、余計な在るものである暗い事物的な実存を明らかにした小説だからではない。ロカンタンの無感性的な他者と自己との関係性である。関係性を欲望しながら無感性が底流にあるのである。彼は確かに他者に関与している。でも、関与して互いに言葉を持ち話し合いながら結局関係性は挫折するのである。挫折と言うより互いに意識が嚙み合わずに、関係性が切れてしまう存在意識の個別性がある。カミュ作「異邦人」が、この世界を拒絶しながら存在の関係性を保持している甘さとは真逆の存在が抱えている空虚な関係性を描いている。
最後にヴァージニアウルフの作品とどこか似ているとの思いがあり、比較してみたい。ウルフの小説「灯台へ」は日常の意識の噛み合わなさ、意識の細かな齟齬を描いて「灯台」を見物にでかけようとする小説である。ウルフには「ダロウェイ夫人」などもっと意識と出来事との色合いとを異ならせた素敵な作品があるが省略したい。ウルフと同様な意識の細やかな齟齬や他愛もない人間たちの日常における諸関係が「嘔吐」には描かれている。「嘔吐」では、主人公の日記形式という叙述形式であると言うより、伯爵など因果関係の不明な事柄の表現が意識と出来事の分断的な複雑さに関与している。また「灯台」が内輪もめを描きながらも前向きな人間存在を描いているのに対して、「嘔吐」は事物的に澱んでいる実存の意識に、ロルボン侯爵が関与した文章の澱みが小説内部の文章相互の無関係性を強調している。
即ち言い換えれば、「嘔吐」は今もって現れ出ることの少ない新しい小説の形式、構成をなす文章で描かれていると思われるのである。私が「嘔吐」を評価するのはこれらの文章が小説の内で無関係さを浮き彫りにし、登場人物の心理と存在をこの世界に宙ぶらりんにしていると思うためである。また、「鉄道屋さんの店」でマドレーヌがかけて、蓄音機が鳴らす音、黒人女が歌う声が良いのである。小説の内から聞こえてくる甘い音が私の脳髄を響かせ揺らすのが良いのである。
以上