題:坪内逍遥著 「当世書生気質」を読んで
この頃は読書に身が入らない。前回の「金色夜叉」はそれなりに読んだが、今回の「当世書生気質」は中途半端にしか読んでいない。「当世書生気質」は全二十回のうち第七回まで読むと挫折してしまった。読めないのである。面白くないのである。つまり、明治初期の小説についてある程度調べようと思って、それらしく有名な作家を選んだのが間違いだったのかもしれない。何も調べる必要などなくて、単に少しばかり関心を持ったに過ぎない。それにしても、坪内逍遥著 「小説神髄」も、数分間目を通し眺めることにしたい。無論、感想文などは書かない。実はこの明治初期の作家への関心は、樋口一葉から始まっていたのである。樋口一葉についてもっと知りたかったためである。
いろいろ書くか書かないかは分からない。けれど、この「当世書生気質」については簡単に説明しておきたい。坪内逍遥は「小説神髄」なる文学の理論を書き、その具体的小説としてこの「当世書生気質」を書いたのである。本書の表紙に記述している紹介文を引用したい。『学生小町田粲爾と芸妓田の次とのロマンス、吉原の遊郭、牛鍋屋――明治10年代の東京の学生生活と社会風俗を描いた日本近代の先駆的作品。坪内逍遥(1859-1935)は勧善懲悪を排して写実主義を提唱した文学理論「小説神髄」とその具体化として本書を著し、明治文学に多大な影響を与えた(解説=宗像和重)』とある。「はしがき」から始まって全二十回ある。表紙の説明とは違って、それぞれが短編の作品かなと思ったら、やはり全編を通じ小説として筋があった。無論、書生の生活を中心として描きながら、色恋沙汰のどたばた話である。
第一回でなんだか知らぬが、お芳と幼なじみの客でもない書生が、廓の外での客の野暮な遊びの際に偶然出会うのである。このお芳が田の次という名であり、書生が小町田粲爾である。第二回と第三回は小町田の友人たち書生の話であり、第四回でお芳と小町田の関係が明らかにされている。妾などが絡んで複雑ではあるが、簡単に言うと粲爾の父がお芳を実子と扱い、粲爾とお芳は兄妹同然に育っている。粲爾が十五歳、お芳が十二歳の時、小町田の父が官職を免職になり、お芳は芸妓として生きている妾に引き取られ、結局芸妓になっている。粲爾は親の出世の望みから学問を行っている。書生の借金の番付など、その後の書生の他愛もない話から、きっと粲爾とお芳の恋物語が始まるのであろう。無論、横恋慕する者がでてくる。第二十回が大団円と書かれているため、きっと悲恋ではない、そうと決まっていると思って、といより彼らの関係がどうなろうと関心を引かずに、読むのを諦めたのである。まあ、廓と書生とを巻き込んで人間関係を重層化させた色恋沙汰の話であろう。
「当世書生気質」は文体に特色がある。句点が多く戯作調にリズムがある。また講談調でもあって高所からの事由説明や人情論がある。短い会話はどうでもよい継ぎ足しである。こうしてみると「金色夜叉」とは根本的に異なった文章である。「金色夜叉」の方が現代文に近いし、人情味も心理も描かれている。まあ、全部を読んでみないと分からないが、当時の日本における代表的な作家の初期の作品をあげて少し比較したい。
坪内逍遥 1859年生まれ 「当世書生気質」 1886年発表
森鴎外 1862年生まれ 「舞姫」 1890年発表
幸田露伴 1867年生まれ 「風流仏」 1889年発表
夏目漱石 1867年生まれ 「吾輩は猫である」 1905年発表
尾崎紅葉 1868年生まれ 「二人比丘尼 色懺悔」 1889年発表
樋口一葉 1872年生まれ 「闇桜」 1892年発表
簡単に説明すると、漱石は処女作「吾輩は猫である」の発表が遅れているが、森鴎外の「舞姫」と共に、文体も小説表現手法も他の作品とは別格である。苦沙弥先生の心情と明治文明批評を描いた「吾輩は猫である」と破たんする留学先での恋愛を描いた「舞姫」は、文章も含めてとても近代的に緻密に描かれている作品である。尾崎紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」は戯作調で、幸田露伴の「風流仏」は淡い恋愛ものである。こうしてみると「当世書生気質」は樋口一葉の「闇桜」と意外にも近似している。簡単に言うと恋愛感情が根底にある。無論、陰な生活をしながら才気煥発な一葉の気質が描く恋心と「当世書生気質」の楽観主義が支配する小説との落差が大きいが、文章は元をたどれば戯作調で、恋心も同じである。なお、「風流仏」も古典的な文体で「五重の塔」の職人気質と異なるが、失恋した女を恋い慕うために彫刻する話である。もしや、こちらの方が「闇桜」に似ているとも思われる。「当世書生気質」が結構長くて、完読していない。このために、芸子との恋愛がどうなるか知らず、正確な作品評価の判断がつかない。
ただ、これら三人は同じ戯作調に源を持ちながら、それぞれに小説内容の異なった発展形態を内包している。尾崎紅葉は通俗小説的な展開を、心理よりも大向こうに受ける情に溢れた筋を綴った大衆文学としての礎を築いている。樋口一葉は揺らぎ研ぎ澄まされる心理を内包していて、近代小説に成り得る能力を持っていた。ただ、若くして死んでその能力を少ししか発揮できなかったのである。近代的心理小説の礎は森鴎外や夏目漱石が築くことになる。すると、坪内逍遥の役割はどうなるのか。支離滅裂な筋になりそうでありながら、きっと、講談調にまとめ上げることができている。いわば、掛け声を上げて先導していく近代小説の先駆者としての役割に「当世書生気質」は終わっている。もう少し正しく評価すれば、「小説神髄」を小説化しようとした試作的な意味しか持たない作品であると厳しい評価になる。無論、こうした単純に思い浮かべた感想は、これらの作家を含めた明治時代との作家と作品を更に調べることによって、容易に変わることになるかもしれない。
以上