
題:アントナン・アルトー著 粟津則雄訳「ヴァン・ゴッホ」を読んで
アントナン・アルトーの著作物は、多田智満子訳「ヘリオガルバス」、宇野邦一、鈴木創士訳「神の裁きと決別するために」、責任編集:粟津則雄、清水徹「アントナン・アルトー全集 Ⅰ」などを読んでいるが、今回もっとも関心を持っていた「ヴァン・ゴッホ」に「神経の秤」に関して別訳を読むことにする。フランス語が分からないために、訳文を比較することなど無意味とも思われるが、ただ、文章の色合いがあまりにも違うために、敢えて訳文も含めて感想を簡単に記したい。「ヘリオガルバス」は多田智満子が知的にうまく訳している。うまくまとまりすぎている気もするが、本人も言っているように狂人で詩人の文章を訳すなど困難を極めるのである。「アントナン・アルトー全集 Ⅰ」の文章は硬い。宇野邦一、鈴木創士訳「神の裁きと決別するために」は簡明に訳していて読みやすい。形式も斬新にして、アルトーの意識をむき出しにしようとしている。粟津則雄著「ヴァン・ゴッホ」はそれほど衒いを狙っていなくとも、でも確かにアルトーの声が響いて聞こえてくる。無論、訳文とは、原文と日本語との意味と無意味とを疎通させ、言葉の律動の伝達に苦労しながら訳すものであり、これらは文章というより、意志とスタイルを持つエクリチュールを訳すことなのであろう。このため、訳者の翻訳に対する考え方が影響すると思われる。
「ヴァン・ゴッホ」なる作品の出だしの文章を比較したい。
「神の裁きと決別するために」なる本:人はヴァン・ゴッホの精神状態について語ることができるが、その彼は全生涯のあいだにただ片方の手を焼かれただけであるし、それ以外には、あるとき左の耳を自分で切り落とす以上のことはやらなかった。
緑色のソースで煮たヴァギナや、
母親の性器から出てきたところを採られたような、
鞭でひっぱたいて泣き喚かせた新生児の性器を毎日喰らっているひとつの世界のなかにあって。
そしてこれはひとつのイメージではなく、地上全体を通して、あり余るほどふんだんに、そして日常的に繰り返され、培われてきたひとつの事実である。
「ヴァン・ゴッホ」なる本:人びとは、ヴァン・ゴッホが精神的に健康だったと言うことができる。彼は、その生涯を通じて、片方の手を焼いただけだし、それ以外としては、或るとき、おのれの左の耳を切り取ったにすぎないのだ。
ところが彼の生きていた世界では、人々は、毎日緑色のソースで煮たヴァギナや、鞭で引っぱたいて泣かせた赤ん坊の、
母親の性器から出てきたところをつかまえたような赤ん坊の性器を喰らっていた。
これは非喩ではない。全地上を通じて、大量に、毎日、くりかえされ、つちかわれている事実である。
「神の裁きと決別するために」は原文を正直に訳しているのだろう。これに対して「ヴァン・ゴッホ」は文章を補正しながら訳していると推測される。趣旨は同じであっても文章の微細は異なる、詩的情緒と論理性が異なる。私は「ヴァン・ゴッホ」の方が読みやすい。また、論理性を声高に叫びながら狂い叫ぶアルトーの精神を論理的にかつ情緒的に伝えていると思われる。まあ、原文を見ていないから確かなことは言えない。同じように「精神の秤」の文章を比較しようと思っていたが止める。あまりにも無駄な行為に思えるためである。
なお、「ヴァン・ゴッホ」は副題として「社会が殺した者」とあるように、アルトーは精神科医によって殺されていたと主張している。自らが同じ体験をしている。即ち、精神病院に入れられた狂気持ちが同じ狂気持ちの画家を論じているのである。まるで絵画の縁を守りながらモチーフを超えて進むまいとしながらも、アルトーは社会と自然とを捕らえて透かして見せつける文章を散りばめている。ゴッホの「からすたち」の画を絶賛している。われわれとこの世界の精神をむき出しにするからである。なるほど、ゴッホの画にはそれほど関心のない私にも、画の中に現れるカラスたちは異様であり不気味であり不安になる。夕暮れ時に帰るカラスなのだろうか。そんなはずはない。不安的に不気味に揺れるカラスは宇宙の波動理論に捕らわれることもなく、ひまわり畑を低空に飛んでいるはずである。
やはり傑作は「精神の秤」であろう。精神と生の虚無性を指摘しながら、ひとつの美しい精神の秤はある。語と私の諸状態との毎分時との一致を欠いているにも拘わらず、魂はいかなる部分も持たず、精神はいかなる瑞初を持たずとも、アルトーは存在が与え続ける執拗な快感を覚えて自分を作り直すという一つの仕事を持っている。でも、アルトーの精神はそこにない。あらゆる言葉が枯れて、あらゆる精神がひからび、あらゆる言語がこわばる。これらがはっきりと見出されるとき、私なるアルトーは、もはや語ることを必要としないのである。
アルトーは虚無と錯乱の思想を持っていて、否定の観念を強く満ちながらも肯定もする、思想の正しい道を歩いている。正しい道とは錯乱しているが故に許される論理性や情緒の欠如であり、一方再生を指し示すことである。片や論理性や情緒も示して、この生の空虚さを暴きその空無さに浸りながら、肉からなる体の再生を願わずにいられない。願わずとも肉を崇めて快楽する精神の虚無性に満足することができる。でも、精神の秤は均衡しながらも遂には壊れる。正しき道も遂には邪悪な道に入るのではない、秤そのものが失われる、消失してしまうためである。こうした精神を計る秤は、うっちゃって壊れても失われたまま捨て置くしかないであろう。
以上
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