川端康成著「みずうみ」を読んで
小説と言う名を借りた取り留めのない作り話と言って良い。小説とはそういうものだと言われればそうであるが、質的に低い作品の、この「みずうみ」は母の村のみずうみである。少年時代の銀平はやよいを誘き出して幸福にひたっていた。無論、湖には霧が立ち込めて岸辺の氷の向こうは霧に隠れて無限だった。この「無限」という中途半端に使われた言葉の意味を、この「みずうみ」なる小説で見つけ出すことは容易ではない。決して霧に隠れて視界が閉じて無限に見えないのではない、霧が世界を覆っていても無限に世界が広がっているのでもない、書かれていないため分からないのである。でも「雪国」では、薄っすらと密やかに書かれている。きっと、主役は無限に無行動で無感覚なのである。感覚派なる川端は暗澹と無限に静止し死んでいる、逆に同じ感覚派なる横光利一の登場人物は活発に無限に生きている。そうした無限なのである。でも、川端は文壇や他の文人のためには無限に尽くそうと行動していたらしい。また、騒がしく生きて骨董品集めをしていたらしい。そのためにこそ、美しい純粋性を求めて彷徨していた。その生きざまは虚偽というより真実であるのだろう。自らの虚偽、空虚を埋め尽くすために、逆に真実な行為として自らに他者を支援させていたのだろう。そのために、小説の内では自らの本来的な心をさらけ出して、空もしくは空虚もしくはデカダンを必死になってペンを握り書かざるをえなかったのかもしれない。
さて、銀平は教師になり美しい女の後をつけるようになる。宮子なる女の後を付けて、彼女の大金の入ったハンドバッグと関係する。バッグを拾ったか、殴られたか、渡されたのか、奪い取る、盗んだわけではない。この時、ハンドバッグと言う言葉が繰り返し書かれて、読まずに文章を眺めていても、百回くらい頭をバッグに殴られたような気がする。それほど気が狂っている、ハンドバックの羅列が文章である。その他、宮子を愛人にする男やらその他の女やら訳が分からない登場人物がいるが、本小説の大きな筋は生徒なる久子との関係が、彼女の後を付けることによって、ある時、何やら不思議な「みずむし」が縁をもたらして関係ができあがる。ただ、この関係は他者に知られ、銀平は学校を追われ彷徨せざるを得なくなる。久子との逢引と夏の夜の蛍との関係、安酒場の女をつれこみ宿に引き込もうとするが失敗するなど、なんやかんやの出来事は書かれて話は続いている。
裏表紙に「水晶現象」と連想作用を重ねて、幽玄な非現実世界が展開されていると記述され褒め湛えられている。だが、連想作用は分裂し破綻している。関連性がなくて行き当たりばったりで、何もが関係なくて出来事は継ぎはぎである。みずうみが生きてこない。美しく無限に凍り付く湖を銀平は一人歩き続けなければならないはずである。そうした真実的な筋をこしらえて描写しなければならない。また「意識の流れ」を描写した作品とも述べているが、流れなどない。どうでも支離滅裂で澱んだ意識である。美しい女の後をなぜつけるのか、その心理もよく理解できない。無論、良く理解できないこの意識は男の正当な行動を引き起こしている。ただ、この男のような歪んだ意識を持とうとも、現実の行動には決して移さない抑圧された男が圧倒的に多いと理解している。こうした男の入り込んだ現実や非現実の意識を描いた優れた小説がたくさんある。また「意識の流れ」なら漱石の「坑夫」などが分かり良いであろう。意識の流れが優れて描かれた作品は読者の意識を圧倒して読ませてくるのである。
川端は美しい日本を見出すのではなくて、美しい女を見出すのである。和服を纏った女の美しさを述べているのか、裸にして肌の美しい女の色艶を比べているのか、当然美顔の女を好むはずで、これらの女はどこに居るかは知らなくとも、いつのまにか見出しているのである。彼は美しい日本の伝統文化を受け継いでいるのではなくて、異端である。むしろ西洋的な虚無の教条的な感覚を表現している。日本文化に虚無はない。無はあったとしても、虚無でもデカダンでもない。彼は日本文化を代表する作家ではない、ただ一人代表を選ぶとしたなら谷崎潤一郎であろう。日本の文化伝統に詳しく、生きることに対して肯定して、日本の美しい女を愛でながら、日本文化を表現している稀有な作家である。そして結構権力への反逆信を持っている。横光利一も西洋的手法を取り入れながらも、生に対して肯定する作家である。そういえば本書「みずうみ」の始まりの湯女との出会いは横光の「上海」と同じ光景を描いている。
川端の「山の音」は読まない。ただ、「禽獣」だけは読んでみたい。そういえば外人作家の書いた「みずうみ」なる華麗な作品を読んだことを思い出した。感想文も書いているはずである。華麗というより幼なじみとの悲しい恋愛を含んだ「美しい」作品であったように記憶している。たぶん、この「みずうみ」は幼なじみを恋人にできずに破綻したのだろうか。感想文を書きながら忘れている。せも「みずうみ」の畔を歩く二人の切ない感情がまだ私の読後感を揺さぶっている。
以上