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伊藤整著 「小説の方法」と「小説の認識」と「近代日本人の発想の諸形式」を読んで

半年以上前に読んでいて、感想文を一つ一つ書こうと思ったが、余り思い出すことがない。内容にそれほど斬新な思想も無いため、結局まとめて書こうと思ったのである。これらは短論文の形式を取っていて、それも何度も訂正し再出版したらしい。著者の苦労の割には伝わってくるものが少ない。文章の切れがあまり良くない、使用する言葉の定義も成されていない、また些か論理に欠けるところがある。良く分からないところもある。たぶん、伊藤整は東西の小説をたくさん読んでいるが、哲学書など論理本を読んでいないために言葉と論理性に十分配慮できなかったのではないかと思われる。むしろ論理を展開しようとする記述を行ったために、逆に分かりにくくしているとも思われる。また読み手の私もそれほど注意を払って丁寧に読んでいるわけでもない。勝手に理解している面もある。「小説の方法」などの著作物の内容を簡単に言うと、近代日本の自然主義などの私小説はヨーロッパの本格小説に比較して劣る、という主張である。何が劣るのか、自己や家族の悲惨な告白的私小説は、西洋の本格小説に比較して、思想がなく泥臭くて醜くい書きなぐりの小説だからである。 

「小説の方法」の解説者、曽根博義は違った見方をしている。自己を語るのは当時の世界的な傾向であった。日本の私小説が自己の破滅へと向かう「逃亡奴隷」の純文学であるなら、その手本とした西洋文学は「仮面の紳士」として、作者その人のひそやかな告白を記していたと言うのである。なるほど日本の近代日本文学を論じるならば、自己の現状の惨憺さを描いて、かつ放棄、エゴの滅却させる日本の文学的情熱の傾向は、西洋文学の人間の生理そのものを冷酷に描いている、言い換えれば人間の心の奥底を冷酷に一見客観的眺めて描いてる小説とは異なっている。こう書けば、自らを本格的にまたは密やかに隠して描いていると主張する曽根博義の日本と西洋小説の違いの解説の通りになってしまう。さて著者は「小説の方法」の序論で「私小説と本格小説」という形式で論じることは意味のあることではないと、むしろ日本の小説には思想がないと主張すべきあると述べている。そして、十三の短論文に分けて記述している。伊藤整は私小説を劣る小説とは言っていずに、でも、私には、彼が私小説を強く批判して、劣る小説と主張していると受け止めているのである。以上の記述は分かりにくいが、結局、日本と西洋の区別なしに、小説の形式と内容として整理し、別途議論する必要があると思われる。 

伊藤整は「小説の方法」の記述に当たって、夏目漱石の「文学論」などを参考にすべきであった。即ち、短論文で途切れ途切れに自己やエゴに生命や倫理、芸術とスタイルなどを分けて文学を論じるのではなくて、もっと体系的な構成を大切にして論理的に文学を論じるべきであったと思う。漱石の文学論はまとまっている。そしてその内容に従って小説を書いている。そうして構成を参考にすべきであった。また「小説の方法」と題すれば、夏目漱石と森鴎外の作品を丁寧に論じるべきであると思う。というより、一通りの日本の近代の文学的な歴史を記述すべきである。それにしても著者の「あとがき」で、ヨーロッパと日本の各四十冊以上の読むべき小説をあげていているのには驚いた。著者が近代日本の小説の特色を記述するのに力を入れたと述べているが、これらの小説を読んでいないと本書を理解できないらしい。私は半分以上は読んでいるので、著者の主張をなんとなくは理解できたらしい。 

というより、ヨーロッパと日本の各四十冊以上の小説の手短な引用とその内容の紹介が多くて邪魔くさく理解を妨げる。そして、著者の理解が舌足らずであるし、むしろ間違った解釈が結構多くて困るのである。この「小説の方法」を読むと、ロラン・バルトのエクリチュールに関する著作物を思い浮かべるが、バルトはもっとまとまって論じている。そういう点では、「小説の認識」も同様にまとまりがなく、感想文として記述ができない。「近代日本人の発想の諸形式」がはるかに良い著者の作品である。ヨーロッパの作品の寸評は省いて、日本の作品に焦点を当て、文章も分かりやすく書いている。また、テーマも「小説の方法」の雑多さがなくなり、絞っていて五点である。「小説の方法」は1948年に、「近代日本人の発想の諸形式」は1981年に発刊されている。この長い間に、著者の思想が明確にされて、文章も洗練されてきたのかもしれない。 

なお、「近代日本人の発想の諸形式」はこの題も含め五編の短論文からなる。これらを紹介したい。「近代日本人の発想の諸形式」では文体と思想の関係、露伴や潤一郎とか伝統的という言葉で片づけられる作家たちの仕事を、社会と結びつけることにあったと述べている。藤村の姪との肉体関係に基づく危機からの脱出は、告発小説「新生」によるリアリズム形式より行うことができた。藤村は花袋や芥川から自殺すると見られていたが、彼の思考方法、即ち文体が脱出の奇跡を成就させたと述べている。鴎外の論理的思考性、漱石の即天去私と「明暗」における自我の醜さ、谷崎の「卍」における人間内部の恐怖の描写、志賀直哉の「暗夜行路」を含めて、これらは社会的な現実生活における統制、調和型の思考によって客観的に行うことができたのである。

 一方、自己逃避型や絶望的破滅型があり、死の意識の上に根本から発見された生命の姿を描いた作家たちもいる。この不幸は家族も巻き込む。また、死または無による認識に基づいた作家たちもいる。この思想はむしろ破滅型の下降させる生命観とは反対に、上昇的な生命観を持っている。志賀直哉の調和感、現世の肯定として「暗夜行路」をあげている。更に著者は芸術至上主義として露伴の「五重の塔」や芥川の「地獄変」をあげている。こうして著者は「相対的人間像と並列手法」と称して、漱石の「明暗」や横光の「機械、二葉亭の「浮雲」、谷崎の「お艶殺し」、芥川の「藪の中」などを論じるが、真実は相対的であり、詳細は省くが個我の本当の確立はありえないなどと評している。また、日本的な小説の並列では変化は時の経過や非人間的な力によってもたらされると述べている。なるほど、本編は読みやすいが記述内容は褒めた割には納得しがたいことを、書いていて改めて思い知らされた。伊藤整の作家たちや作品への解釈は、これまた詳細は省くが私の解釈とは真逆に隔たっているのである。個我の確立とはなにか、生命観、芸術至上主義などの型通りの評価は成り立たないのである。 

二つ目の「近代日本の作家の生活」では、馬琴や魯迅を含めた原稿料の話である。原稿料はそれほど高くなかったらしい。なお、近代では文壇が形成され師弟関係ができあがる。尾崎紅葉はその代表的な存在である。弟子には泉鏡花などがいる。小説の発表は師匠なくしてできなかった。また、新聞社が作家を社員として雇い入れる。その代表的な例が夏目漱石などである。こうして小説は封建意識から脱して口語体となる。一般的に小説家は二、三の例外を除いて貧しい生活を送っていた。この貧しさこそが社会に帰属しない自己本位な私小説を描くことができたのであると著者は述べている。 

「近代日本の作家の創作方法」では明治初期からの日本文学の主流は私小説または心境小説であると著者は強調している。こうした創作物の形式や内容の相違を、著者は作家の方法の問題として考えたいと述べ、既に「小説の方法」として書き、「方法」という言葉が西洋由来の文芸評論の基本的な意識であると強調している。「方法」とは人間の感動を文学によって構成することと述べ、自然主義以来の私小説家が方法を持たなかったと主張する。そして私小説と芸術至上主義の小説という区分けを行い「五重塔」や「地獄変」を芸の勝利の作品として取り上げるに至っては、唖然とするしかない。そして、私小説に反感を抱いて「方法」という考え方持ち込もうとしている小説とだけ記述している。著者は私小説が嫌いで、西洋の本格小説な記述を志向したとの私の直感は正しかったのである。 

「昭和文学の死滅したものと生きているもの」では多数の作家の名前が記されているが、今なお読まれている人は数少ない。多くのものが死滅したのである、これからも死滅するものの数は増える。私は近代日本文学の全集を廃棄した。残るものは少なく、作品も作者も、文学とはある種の絶滅種である。といより、もはや小説とは、自らを慰めるための言語による孤独な創造であり、創造すれば朽ち果てる運命にある。ただ、これらの文字がチャットGPTで拾い上げられれば重ね混ぜ合わされて、奇妙な傑作が新たに創造されるかもしれない。新しいAIが新たな読者たちを獲得して読まれるかもしれない。 

「近代日本における愛の虚偽」では愛と恋とを区別して、「愛」を男女の結合とし、他者への愛の働きかけのない日本では、性による束縛の強制を愛という言葉に託して考えていると主張している。つまり宗教心の働きの無い所に愛という言葉を輸入して、惚れるや恋うるに代用して愛を男女の関係の虚偽としたのである。言い換えれば愛とは心ではなく肉体に関連する。愛により女性と結婚した男性は日夜娼婦と暮らしている。ここまで書いて何やら分からなくなってきたのは、愛に関する私の文章の論理的な流れではない。著者の不思議な愛の論理でもない。愛の言葉の意味そのものである。著者は慈悲と姦通罪と孔子と仏教をキリスト教徒などの言葉を駆使して愛のプラスとマイナスを算定する数学的な幾何学者となっている。著者は「チャタレイ夫人」を翻訳して、本当に「愛」という言葉を理解したのだろうか。夫人は木こりから十分な性愛を獲得しただけなのだろうか。振り返ると、表題のすべての本において、著者はうがった見方をしようとして斜め横から眺めて論旨を展開し、その結果、日本の近代文学史の本質を捕らえ損ない、その周辺を徘徊しただけなのではないだろうか。 

日本の近代文学を論じるならば、大切なのは「方法」ではなくて「文学論」であり「文学史」を「形式」と「内容」に従って、明確に記述することである。結構多くの人が小説の方法を書いているが、読んではいないが、小説が何をどのように描くか論じるのであれば、著書の思想をと構成を明確にして記述することである。残念ながら伊藤整の実験的小説「鳴海仙吉」は読んでいない。 

以上

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歩く魚
詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。

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