川端康成著 教科書で読む名作「伊豆の踊子・禽獣ほか」を読んで
川端康成に対する私の評価はそれほど高くはない。文章も作品の内容も粗さが目立つ。小説家として上手いとは言えないのである。その上手くはない文章と作品の筋の粗さが、一層、読者をある種の虚無とか無の中に引き込む作用があるかもしれない。幻影的に現実感を喪失させ、生命に翳りを内包させる彼の作品群は、当然その削ごうとする生命に活力を与えることができない。ただ、逆に翳りあるこの生命の暗さの内に読者を安住させて、心身共に安心感を与えてくれるのかもしれない。それとも、安心感を与えることなどなく、主人公と共に読者に暗く生きる生活を強いるのだろうか。空っぽの空間にもはや空っぽになった意識を置き去りにさせて、より深い虚無の奥へと読者を引き込んで行くのだろうか。これらは読者が選択することで在りながら、作家自身が選択する道でもある。そしてもはや選択はなされているのである。これが私の川端康成の作品を読んで感じた簡潔な感想である。
この簡単な感想が間違っていないか「禽獣」か「山の音」を読んで確認しようと思ったのである。もっと、正しくかつ長く評価を書くとすればロラン・バルトのエクリチュール論を参考にして、歴史と現実からの感化と影響による作品評価を行なうのが一番良さそうである。ただ、この「エクリチュールの零度」の内容はすっかり忘れたので、読み直すのが面倒でありできないと諦めている。さて、本書は短編を集めたもので、読んだのは全12作品のうち、最初の二つ「伊豆の踊子」と「禽獣」だけである。短い時間で読んでしまっても、私の評価が変わることがなかった。そして、感想文も書くつもりもなかった。ところが、三島由紀夫が「永遠の旅人―川端康成氏の人と作品」と題して解説していたのである。その内容は私の評価・批評と似た論点があった。ただ、私以上に格段に精緻に正確に書いていたのである。この三島由紀夫の川端康成に対する評価を紹介すると同時に、若干の批判もしたかったのである。
なお、「伊豆の踊子」の筋書きはこうである。高等学校の学生が旅芸人の一行と仲良くなり、同じ旅館に泊まるなどする。学生は若い踊子に惹かれている。本を読み聞かせするなど仲良くなるが、踊子は素っ裸で風呂に入ってくるなど無邪気である。一行のそれぞれには、例えば生まれた子がすぐに死んだなどの悲しい過去、それに現在のお座敷での数多の苦労がある。学生は学業の都合で彼らの故郷の島を訪れる約束をして、朝早く踊子に見送られながら船に乗り別れる。学生は踊子との別れの辛さなのか涙がぽろぽろと零れ落ちる。この涙が、他にも一か所記述があったがどうしてもしっくりいかない。恋心など切なさがなくて、浮き上がった描写になっている。学生のそら涙に苦笑せざるを得ない。こうした似非なる微妙な初恋を描く作家、繊細な現実感覚に基づいた描写を欠如させた文章が川端康成の文章なのである。
「禽獣」の筋書きはこうである。主人公の男は死んだ小鳥、菊戴(きくいただき)の番の死骸をそのまま押し入れにいれている。番に雌をもう一羽いれた嫉妬の結果であるのだろうか。ボストン・テリアの犬も飼う。ただ、彼は雌しか飼わない。母犬は体が十分女になっていないのにも拘わらず子を産むが、すぐさま死ぬ子犬もいる。彼は昔、満州巡業団の一員だった千代子と親しくなった。彼女の野蛮で退廃的な肉体に惹かれていた。ただ、結婚はしなかった。彼女は別の男と結婚することになる。その千代子の舞踏を見に行くのである。幾度目かの舞踏会であった時、千代子はげそっとした肉体をしていた。子供を産んだのである。彼は雲雀も、紅雀も飼ったことがある。紅雀は初めて死んだ禽獣である。目の前にいる千代子は若い男に化粧をさせていた。亭主であった伴奏引きとばったり会うと離婚したと言う。ただ、男は千代子の踊りは褒める。この男は少女の遺稿集を懐に持っている。母は死んだ少女に死化粧を施したらしい。娘の死んだ日の母親の日記に書いてある文章はこうである。「生まれて初めて化粧した顔、花嫁のごとし」なんとも男は死んだ少女の母親の日記を覗き見できるのである。作者の特権にしても、少女の遺稿集の文章に含ませるなど工夫が欲しい。「禽獣」では出掛ける時葬儀車にあうなど、小鳥の死骸を押し入れに入れて置くなど、各種の禽獣の惨たらしい死を描くけれど、千代子は禽獣として描かれていない。野蛮で退廃的な肉体としてしか描かれていない。それに最後に花嫁の逸話を入れるなど無理に話の筋に流れを作っている。常に川端康成の文章と筋書きは無理があるのである。私はいつも納得できない小説を読んでは呆れている。というよりこの筋書きの齟齬と乱調に作者の退廃さを感じるのである。
さて、こうした川端康成を三島由紀夫は「永遠の旅人―川端康成氏の人と作品」と題して現実に付き合った思い出と人間像の感想とを、簡単ながらも格調高い文章で作家論を書いている。16頁と短いので短い時間で読めるため、正確に記述内容を知りたければがこの作家論を読むのが一番手っ取り早い。三島由紀夫の引用した評価は網掛けにしたい。
作品全体の構成におけるあのような造形の放棄、・・たとえば川端さんが明文家であることは正に世評の通りだが、川端さんが文体を持たぬ小説家であるというのは、私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり鍵なのである。混沌と不安に対処して、世界を整理し、区別し、せまい造形の枠内へ持ち込んで来るためには、作家の道具としては文体しかない。フロオベルの文体、スタンダールの文体・・・文体とはそういうものである。
ところで、川端さんの傑作のように、完璧であって、しかし、しかも世界解釈の意志を完全に放棄した芸術作品とは、どういうものであるのか? それは実に混沌を恐れない。不安をおそれない。しかしそのおそれげのなさは、虚無の前に張られた一条の絹糸のおそれげのなさなのである。ギリシアの彫刻家が・・あの端正な大理石彫刻が全身で抗している恐怖とはまさに反対のものである。・・氏の生活の、虚無的に見える放胆な無計画と、氏が作品を書く態度の、構成の放棄とはいかにも似通っている。・・・「化粧と口笛」のような作品では、・・氏の感受性はそこで一つの力になったのだが、この力は、そのまま大きな無力感であるような力だった。何故なら強大な知力は世界を再構築するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の裡に受容しなければならなくなるからだ。これが氏の受難の形式だった。・・・知力は感受性に論理と知的法則とを与え、感受性が論理的に追い詰められる極限まで連れて行き、つまり作者を地獄へ連れていくのである。・・「禽獣」で、作者ののぞいた地獄は正にこれである。「禽獣」は氏が、もっとも知的なものに接近した極限の小説であり、それはあたかも同じような契機によって書かれた横光利一の「機械」と近似しており、川端さんが爾後、決然と知的なものに身を背けて身を全うしたのとは反対に、横光氏は、地獄へ、知的妄想へと沈んでいくのである。・・生命(いのち)に対する賛仰があらわれ、巨母的小説家であった岡本かの子に対する氏の傾斜は有名である。
・・川端さんにとって生命とは、生命イコール官能なのである。・・氏のエロティシズムは、氏自身の感応の発露というよりは、感応の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるいは接触の試みと云った方が近い。それが真の意味でエロティックなのは、対象すなわち生命が、永遠に触れられないというメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不接触であるが、犯されたときにはすでに処女ではない、という処女独特のメカニズムに対する興味だと思われる。ここで私は、作家と、その描く対象との間の、――書く主体と書かれる物との間の、――永遠の関係について論じたい誘惑にかられるが、・・
以上が、三島由紀夫の評論からの引用文である。なお、文庫本「小説家の休暇」で川端康成論の全部を読むことができるらしい。年代を調べてみると、どうも川端が生きている時に書かれている。世界解釈の意志や構成の放棄など、評論内容は川端の一条の絹糸の恐れ気のなさと褒めているが、些か驚きである。褒めるか批判するか逆の立場を取ることができるけれど、弟子としては褒める以外にないだろう。三島と川端の文章の質に関しては相似と決定的な相違とがあり、相似を注目すればやはり褒めるしかない。でも、彼らの文章の質について論じるのは今回省きたい。川端もこの評論内容については正しいと実感していただろう。文体を持たないことこそが川端の感受性の極限の結果であり、下手なのではない世界の構築の放棄なのであり、この結果、彼は地獄に引き摺り込まれて苦しんでいたのである。でも、文体を放棄せざるを得ないほど苦しめられながら、川端は悠然としており、「禽獣」などで、知的に接近した描写を行うこともあったのである。三島の論評に従えば以上のようになる。
確かに「眠れる美女」の老人の思い出よりも、「禽獣」の方が知的でニヒリズム、即ち虚無的である。川端康成には珍しく、「禽獣」では死と生命が際立って暗く客観的に書かれている。従って、「眠れる美女」をニヒリズムの傑作あると三島が述べたことは無理である。ただ、「禽獣」は1933年発刊、「眠れる美女」は1960年の発刊であり、年代的な開きがあるため、三島が晩年の川端に意外にも追従したとも考えられる。老人には褒める以外の方法を取れなかったのである。また「禽獣」が生で命を表現されている珍しい作品であり、「眠れる美女」の方が単純で明快な構成の作品であることにも起因しているのかもしれない。
横光利一は、三島の言うように知的であるとも言える。ただ、やはり感覚的とも言える。横光利一の「機械」は以前感想文を書いたはずであるが、よくお金を落とす社長と工員が新規製品の開発に際し、他の行員への疑惑する心理、更に新しく雇われた工員への疑心暗義の心理が、三つ巴になって描かれている。最後は取っ組み合いになる。酒を飲んで和解したかどうかは定かでない。横光利一はこの「機械」を始めとして短編小説を豊かに創出している。知的に悪戦苦闘してるのは長編小説に良く表れている。横光利一が知的に地獄へと進んだと言う、三島由紀夫の指摘はきっと正しい。「上海」は湯女との付き合いや肉体も描かれていて良い作品である。でも、知性は現地の工作員との政治的な対話などが鼻に着いて、知的に病み始めているが深くはない。これが、もはや「欧州紀行」は恋愛小説として読むことから逸脱して、政治と神とも言える信仰の問題が知的に長々と綴られていて悪戦苦闘している。惜しい作品である。政治と神を取り除けば、恋愛小説の一大傑作となりえただろう。
さて、川端が処女を描くのは、三島が述べるように触れられない生命へのメカニズムにある。と同時に、生命を宿し産むことのできる熟れた肉体への憧憬と逆に嫌悪感から生じる。「禽獣」の千代子の肉体に関する文章を再度引用するとこうである。彼女の肉体の野蛮な退廃に惹かれた。いったいどういう秘密が、彼女をこんな野生に甦らせたのか、六、七年前の千代子と思いくらべて、彼は不思議でならなかった。なぜ、あの頃結婚しておかなかったかとさえ思った。しかし、第四回の舞踏会の時、彼女の肉体の力はげっそり鈍って見えた。
千代子は出産していたのである。言い方を変えれば、野蛮な肉体に宿る生命の荒々しさへの憧憬と逆に嫌悪であると言うことができる。この犬は今度が初潮で、体がまだ十分に女になっていなかった。したがってその眼差しは、分娩というものの実感が分からぬげに見えた。死産だから子犬を食う犬もいる。このように「禽獣」では執拗に生命の産出と死が描かれている。作者はこうした命を生むことのできる女そのものを憧憬するよりも、むしろ嫌悪している、というより関わることを恐れている。それでいて密に関わろうとし関わっている。この矛盾が最後に、死んだ少女の遺稿集を読むのが好きで、「生まれて初めて化粧したる顔、花嫁のごとし」と書かしめている。こうした川端を三島は先ほどの文章を再引用すると次のように書いている。
・・氏のエロティシズムは、氏自身の感応の発露というよりは、感応の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるいは接触の試みと云った方が近い。それが真の意味でエロティックなのは、対象すなわち生命が、永遠に触れられないというメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不接触であるが、犯されたときにはすでに処女ではない、という処女独特のメカニズムに対する興味だと思われる。
上記の文を私の意見交えて解釈すると次のようになる。感応の本体たる生命が生み出すエロティシズムは接触と言う感性を通じて現れる。それは接触できずに単なる接触の試みになると、より強いエロティシズムになる。ただ、永遠に触れられない生命はない。処女も同じである。禁忌な不接触なまま存在する生命はない。川端が処女のメカニズムに関心を持つのは、川端の本質が時間と空間において行動を停止しているためである。肉体が不作動であり、心と共に作動して向こう側へと飛び越し接触することがない。常に眺めているだけである。従って、いつのまにか知らぬうちに処女は非処女となり、より強くエロティシズムを醸し出してくる。この知らぬ間の処女のエロティシズムの構造の変化に川端は関心を持っているのである。もはや、美しい女となってエロティシズムを醸し出し眺めて楽しませるだけではない、強く誘惑して行動を要求してくる。悩ましくも接触せずとも女は旺盛な肉体を持つようになり、目の前にその肢体を晒して、美しい女が目の前に居て接触を要求してくるのである。そしてこの女たちは子を産むことができる。生きた子であり死んだ子ではない。彼女たちの肉体がエロティシズムの隆盛を極めて、常に若々しくそこにある。ここまでの記述が三島と川端に対する私の意見を加えた論評になる。
でも、更に私の見解を綴ると次のようになる。女たちの肉体がそのうち死んだ子をのみを産んで、やがて肉体を疲弊させて子を産まなくなる。産まなくなるばかりか、子を食べ始める時がくる。エロティシズムを取り戻そうとして幼い命を食する時がくる。自らの死が脳裏に過ることはない、常に生き永らえて命を食して更に生き永らえるのである。「眠れる美女」が、三島が言うニヒリズムの傑作になるためには、自ら産んだ子を食べて生き続けるなければならない。即ち、老人は老体を晒しても、眠れる美女と思い出した昔の美女とを並べ食して行動し生き続けなければならない。「禽獣」においては、千代子を食し抱いて、押し入れに放り込まなければならない。ニヒリズムとは自らの命を維持しするために他の命を食する、命の連鎖の遮断にこそあるのである。
さて、話が変わるが、谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」では若くて美しい妻を奪われた少将滋幹の父は、夜な夜な墓場を訪れて若い女の墓を暴いている。生を愛おしむ谷崎潤一郎が不浄を描くのに対して、命を育むものに嫌悪を感じる川端康成が処女を描くのは奇妙である。川端は精神を安定させる必要がある。処女を描くことで逆に生命から離れていき、キチガイにならなくて済むのである。静止して動きの少ない人物を描くのは、横光利一のように湯女の肉付き豊かな肉体を描かなくて済むからである。「雪国」の最後の場面で、葉子の内生命が変形する移り目のようなものを島村が感じ、駒子に「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」叫ばせたのも、生命の根源の崩壊を知ったからに違いない。それはエロティシズムからニヒリズムへの変貌に違いない。葉子は駒子のいいなづけの死を見送っている。燃え盛る炎の中で生命の根源が絶たれずに生き残るためには、生命の底に動かずに端座するか、死んだ子を食べる以外には、キチガイになるしかないのである。
最後に一言だけ言いたい。川端には「美しい日本と私」という短論文があるが、読んだことはない。ただ「美しい日本の女と私」という題の方が良いと思われる。美しいが「日本」にかかるのか、「女」にかかるのか紛らわしくて分からないが、美しい女が好きな川端の本質を突いている。
以上