川谷茂樹『スポーツ倫理学講義』が暴いてしまったもの
スポーツ倫理学の第一人者である川谷茂樹の『スポーツ倫理学講義』を読みました。川谷は世界の潮流に反して勝利至上主義の立場で論陣を張っている異端の倫理学者です。(1968年生まれですが早逝しています。)本書は川谷37歳の著作であり、既存のスポーツ倫理学に対して一人敢然と異議申し立てを行うという刺激的なものです。今回はこの問題作を読みながら、川谷茂樹が暴いてしまったものは何かという視点で考察していきたいと思います。
倫理学のご都合主義な性質
スポーツ倫理学者のほとんど全員が勝利至上主義を批判します。スポーツ選手も倫理的・道徳的であるべきだという立場で一致しているのです。しかし、そのような学界の状況に対して川谷は異を唱えます。スポーツを原理的に考えれば勝利至上主義しかありえないのだと。どんな犠牲を払っても勝利を追求することこそスポーツマンシップなのだと。非常に挑発的ですし、露悪的な主張と言ってもいいでしょう。私は川谷の主張にまったく同意しませんが、川谷が既存の倫理学業界を徹底的に批判したことは評価したいと思います。
要するに川谷が言っているのは、既存のスポーツ倫理学者たちのほとんどは、社会常識から見て受けのいい主張しかしておらず、物事を真剣に考える姿勢が見られないということです。スポーツ倫理学者の多くは、スポーツの本質は競争にはないという理論を語りがちです。やれ卓越性だの遊びだの協同だの。しかしそんなわけがないのであって、スポーツの本質は勝ち負けをはっきりつけること以外にない。それ以外のことはスポーツに内在するものではなく、スポーツの周辺に外在するものにすぎない。要するに世のスポーツ倫理学者たちは都合のいい詭弁を弄しているに過ぎない。物事の本質から目を逸らし、受けのいいことを言っている不誠実な連中にすぎないのだと。
スポーツの本質は競争であり、競争は本質的に他者に害悪を与える非道徳的な行為である。したがってスポーツは本質的に「ろくなものではない」というのが川谷の結論です。しかし世の倫理学者たちは中途半端にごまかそうとしているのだと川谷は言います。
この鋭い批判は、おそらく倫理学という学問の急所を突いていると思います。倫理学業界の不都合な真実を照らしているように思います。つまり、倫理学者は社会常識につい迎合してしまうものであるということです。スポーツの存在そのものを批判する勇気もなく、かといってスポーツ固有の論理を認めるでもなく、中途半端に社会常識的な道徳をスポーツに押し付けようとするだけの微温的な態度。社会からどう見られるかを気にして、ご都合主義的な「正解」を示して世間に迎合しようとする振る舞い。それを川谷は厳しく批判するわけです。
どうとでも言える哲学/倫理学
ここから先は私の個人的な考えになりますが、哲学や倫理学というものは意外なほど融通無碍なものであり、どんな主張もやろうと思えば出来てしまう面があります。今回取り上げた話のように、勝利至上主義を諸悪の根源として否定することもできれば、川谷のように正反対の論陣を張ることだって出来てしまうのです。始めに価値観ありきで、それを哲学的に肉付けして理論武装すれば1つの哲学理論の出来上がりです。結構いい加減なものです。
別の例を挙げてみましょう。「脱構築研究会」というシンポジウムで東浩紀と佐藤嘉幸が対立する場面がありました。両者ともフランス現代思想の大物であり、ほぼ同じような哲学的バックグラウンドを持っている人物と言えます。しかし、価値観はまるで異なり、佐藤が「対話にならないかもしれない」と言うくらい深い溝があります。
私が思うに、結局のところ哲学というものは、読み手の感受性や気質・体質によっていくらでも変わってしまうのでしょう。読み方も千差万別、そのどこを重要視するかも千差万別、何を教訓として何をスルーするかも自由であり、自分独自の思想をどのように構築しても自由です。自分の体質に合ったものを残し、合わないものは捨てていく。その結果、自分の感受性を反映した「納得のいく」哲学体系が出来上がります。しかし、他者に伝わる保証は何一つない。そういう世界です。
川谷の勝利至上主義への偏愛にも同じことが言えます。川谷がスポーツに感じる魅力は、スポーツ選手が日常生活上の倫理をまったく無視して勝つためにえげつないことをやってのけるところにあるのだそうです。「そこまで徹底して遂行できるのか!」という感動があるらしいです。随分変わった趣味のお持ちのようです。それはおそらく、川谷自身が、日常的な倫理の束縛から解放されたいという欲望を強く持っているからでしょう。だからスポーツという限定された時間・空間の中であっても、それを見ることで精神が癒される心地がするのだと思います。たぶん川谷は日常的な倫理にあまり信を置いていないのでしょう。だから、それが相対的なものに過ぎないかもしれないという気づきの契機を与えてくれるところにスポーツの魅力を感じているのだと思います。
しかし、私に言わせれば、それは川谷個人の特異な感受性にすぎませんし、それを哲学/倫理学的に理論武装してみせただけにしか見えません。ロジックによる逆張り芸という意味ではひろゆきと変わらないと思います。ひろゆきもまた、自身の感受性の届く範囲で積極的に情報を集め、自分なりに整理してロジックを組み立てている人です。哲学者・倫理学者と何が違うというのでしょうか?
脱線しますがせっかくなので伊藤昌亮の『ひろゆき論』についてもひと言言っておきましょう。これは2023年3月にWEB公開された論考であり、リベラル知識人の立場からひろゆきを分析し、否定的な評価を下したものです。
私なりに要約しますと、ひろゆきには人文的な教養がないからけしからんと言っているだけです。たしかにひろゆきには人文的な教養はなさそうですし、それ以前に文学などを受け取る感受性もあまりなさそうです。しかし、だからひろゆきは駄目だと言う伊藤の主張はかなりの暴論だと思います。人文知もまた相当不確かなものであり、哲学でさえ「どうとでも言える」面を持っています。川谷が暴いたのは、哲学/倫理学の主張にも根拠の乏しいものが多々あるということであり、また、一見常識外れのことでも哲学/倫理学的には「言えてしまう」ということでした。人文知とはこのようなものですので、ひろゆき的な人々に「わざわざ人文知を調べても仕方ない」と思われたとしても不思議ではないでしょう。なので、人文知に興味がないならなくてもいいし、それなりに上手くやってくれればいいのです。ひろゆきはかなり上手くやっているほうだと私は思いますし、ひろゆきに人文知は別に必要ないとも思います。
スポーツは反道徳的だから楽しい?
川谷は次のように言います。
近代以前のスポーツはもっと野蛮であり、血が流れたり死者が出たりしていました。近代以降、制度化が進み、資本主義に取り込まれて巨大ビジネス化していきます。その際に必要だったのが「野蛮なイメージの払拭」でした。長い間、スポーツ観戦というとネガティブなイメージがつきまっていましたが、アメリカのスポーツビジネスがイメージの浄化に成功し、家族で観戦に行くカルチャーを作ったといいます。(下記『スポーツファンの社会学』参照)
そういう経緯を考えますと、スポーツ倫理学が果たしてきた役割も予想がつきます。スポーツは本質的には有害なものではないのだとお墨付きを与えることで、スポーツ産業の発展に貢献してきたのでしょう。それでいて、スポーツの非倫理的な側面が肥大化しないように、社会的な倫理によって一定の束縛をしようとしてきたのだと思われます。そのような中途半端なポジションを取ることによって、細々と社会に貢献してきた学問だと言えるかもしれません。
しかし、もしスポーツが「反道徳的だから楽しい」ものなのだとしたら、家族でスポーツ観戦に行くのは決して好ましい行動とは言えないでしょう。
しかし、詰まるところ、川谷が言うようにスポーツは反道徳的だから楽しいだけなのかもしれません。ここから先の議論は倫理学の範疇を超えるでしょうが、私たちはスポーツの何を楽しんでいるのかという考察は続けてみる価値がありそうです。哲学/倫理学的にはどうとでも言えてしまうことが分かりましたので、より現実に即した考察をしたほうが建設的でしょう。スポーツ社会学やスポーツ心理学を参照するのが良さそうです。
ここで私自身のスポーツに対する違和感を述べておきますと、まず第一に観戦者の人権意識の低さがあります。勝つための暴力やハラスメントを簡単に認めてしまう人たちが多いです。たとえば昨年、NBAのゴールデン・ステート・ウォリアーズのチーム内で暴力事件が起こりましたが、チームメイトを思いっきりぶん殴ったドレイモンド・グリーンに対してチームはほぼノーペナルティでした。そしてNBAファンの人々はそれを平気で受け入れていました。贔屓のチームや選手の非倫理的な振る舞いは許す、その代わり勝利を要求する。そういう嗜虐的で加害的な態度が見られます。いくらイメージを浄化したところでスポーツ観戦者の実態はそんなものです。理性よりも欲望によって動いている業界なのだと感じます。決して健全な世界ではないと思います。そういう問題意識で今後もスポーツのことを見ていこうかと思っています。
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