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鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』感想①

 鳥羽和久さんの発言に対しては以前のnoteで批判的に取り上げたこともありますが、塾経営者でありながらその著書に東浩紀が帯を書いていたので、一度ちゃんと読まなければと思っていました。
 まず、私は家庭教師等として個別指導の仕事をしていますが、受験業界に対して強い不信感を持っています。つまり、同業者たちに対して基本的に嫌悪感を持っているということです。有名な教育者が「持論」を語るのも苛立たしく見ることが多く、たとえば林修とか高濱正伸とか子どもを東大に入れた母親のような人たちが、自分の狭い体験だけを根拠にあるべき子育てや教育について語るのを苦々しく思っています。なので鳥羽さんの著作に対しても警戒心を解く気にはなれません。まずそのことをお断りしておきます。

 本の内容に入る前に、鳥羽さんの出自や人となりが分かりやすいインタビュー録音がありましたので、その感想から行きたいと思います。

 まず特筆すべきは、両親が敬虔なカトリック信者だったということです。カトリック信者が大半を占める田舎の集落にわざわざ引っ越したような家庭で育ちました。当然、強く抑圧された少年時代だったと鳥羽さんは振り返っています。
 もう1つ鳥羽さんの大きな個性は、極端な怖がり屋だったことです。ちょっとでも怖い臭いがしたらすぐ逃げたと言います。先輩が怖い、大人が怖い、運動会のようなイベントが怖い。そんなわけで高校時代は授業をサボって部室に入り浸る、不登校気味の生徒だったそうです。
 大学時代は学部に6年在籍して日本中を旅していたといいます。鳥羽さんは1976年生まれですから、「自分探し」とか「モラトリアム」といった言説が流行っていた時期でした。大学院在学中に塾を立ち上げて、そのまま今に至るのだそうです。以上のプロフィールを見ると、明らかに「社会」に適応し損ねたタイプの人だという印象を受けます。そして、思いのほか私とも共通点が多く、親近感を覚えました。

 では本の内容に入りますが、いきなり「はじめに」の中に引っかかる箇所がありました。引用します。

 あなたが理不尽に立ち向かう胆力を得たとして、あなたの前にはさらにもうひとつ大きな壁が立ちはだかることになります。それは「正しさ」を求めることの難しさです。理不尽なことと戦うためには根拠が必要になります。だから、あなたは「正しさ」を手に入れることで、それを根拠地にしようとします。実際、ある特定の「正しさ」を妄信することで敵をみずから作り出し、それと戦うことで生き延びるエネルギーを得ている大人はたくさんいます。
 ところが、誠実すぎるあなたは気づいてしまうのです。手に入れたはずの「正しさ」は、根拠地にするにはあまりにも相対的であやふやなものだということに。それは立場が変われば変わってしまうものであり、ひとつの「正しさ」について絶対的な合理的根拠を得ることは不可能であるということに。
 このような不可能性が目の前に立ちはだかったとき、それでも絶対的な根拠を得たい人たちは、例えば数学や科学といった世間で正しさの承認を広く得たものを利用しようとします。そのことを通して自分の考えが許容される範囲を最大化しようとするのです。しかし、これが大きな躓きのもとです。世界はいまだ謎だらけで、わからないことに満ちあふれているのですが、そのわからない事柄が「自然科学で実証された」という触れ込みで、さもわかったふうに提示されるようになるのです。世界は偶然に覆われていて、ほとんどのことは理屈どおりに進まないのに、そこにむりやり因果関係を差し挟むことで、理解可能性がでっち上げられるのです。

p14 強調は本文のまま

 私は一読して嫌な感じがしました。これはよくあるポストモダン相対主義の言説です。「正しさ」は相対的であやふやなものだと強調する立場で、あろうことか科学まで批判対象にしています。いかにも千葉雅也が好みそうなエビデンス主義批判ですね。鳥羽さん自身も大学時代は精神分析を専門に研究していたようですし、ポストモダン思想にかなり親和的な傾向が見られます。東や千葉が喜ぶのも分かります。
 しかし、ポストモダンな教育論ほど役に立たないものはありません。上の文章を読んでも、現実の一体何を批判しているのかよく分かりません。「ひとつの「正しさ」について絶対的な合理的根拠を得ることは不可能である」などと書いてありますが、現実のどこにそんなことをしようとしている人がいるのでしょうか。「正しさ」は蓋然性を合理的に比較考量する類のものだと考えるのが常識ではないでしょうか。ポストモダンにはそういう所があります。ありもしない「近代主義」を批判するポーズを取りたがる傾向です。
 また、わざわざ「はじめに」で科学批判をしているからには、本文でその話を展開するのかと思いきや、これっきり出てきません。ここで科学批判を挿入した意図もよく分からないのです。科学を根拠にすることを批判しながら、本書が立論の根拠にするのは生徒たちのエピソードです。エピソードは根拠になるのでしょうか。教育者はエピソードを根拠にしがちです(私もそうです)が、自分が主張したいことに合わせていくらでも都合のいいエピソードを拾うことができます。こういう教育言説のパターンが、「カルト化する教育」とでもいうべき社会状況を作っていると思います。教育こそもっと科学のメスを入れて共通の知識基盤を作り、その上で議論することが喫緊の課題だと思います。たとえばデータ科学の手法で教育の効果を合理的に測定するジョン・ハッティの仕事や、中室牧子や成田悠輔、安藤寿行らの研究が重要だと思います。
 

 つづく


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