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二〇二〇年代を代表する作家のひとりになったと言っても過言ではない――古沢嘉通/R・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』訳者あとがき[全文]
この記事は2025年2月刊のR・F・クァン/古沢嘉通訳『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』(東京創元社/単行本)巻末訳者あとがきの転載です。(編集部)
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本書は、いまや二〇二〇年代を代表する作家のひとりになったと言っても過言ではないR・F・クァンの長編第四作にして出世作BABEL, OR, THE NECESSITY OF VIOLENCE: An Arcane History of the Oxford Translators’ Revolution(2022)の全訳です[注1]。
まず、著者をご紹介しましょう。R(レベッカ)・F・クァン、一九九六年五月二十九日、中国広東省広州市に生まれ、二〇〇〇年に家族とともにアメリカ合衆国に移住しました。クァンの中国名は、匡靈秀(匡灵秀)。中国語で発音するならクアン・リンシウ、音読みするならキョウ・レイシュウ、でしょうか。
テキサス州ダラスで育ち、ワシントンDCのジョージタウン大学で国際史を専攻したのち、英国のケンブリッジ大学で中国研究の哲学修士号、おなじく英国のオックスフォード大学で現代中国研究の理学修士号を取得後、コネチカット州のイェール大学東アジア言語・文学部の博士課程に進んでいます(ディアスポラ、華語文学、アジア系アメリカ文学を研究し、二〇二四年四月には博士号資格試験に合格したそうです)。一貫して大学で研究者生活を送るかたわら、二十一歳のとき、第一長編The Poppy War(2018)で作家デビュー。三部作の第一巻となったこの作品でネビュラ賞にノミネートされるなど〝それなりの〟注目を浴びますが、なんと言っても彼女の名前をひろく読書界に知らしめたのは、『バベル』でした。
翻訳行為により魔法的な力を発揮する「銀」をもって世界の覇権を握る十九世紀前半の英国で、その中心となるオックスフォード大学の王立翻訳研究所「バベル」を舞台に、中国生まれの孤児だった主人公ロビン・スウィフトたち四人の学生の凄絶な青春を描いた、邦訳原稿枚数千六百枚を超えるファンタジー巨編。二〇二二年八月にハードカバー版が発売されるや、TikTokなどのSNSを中心に若い読書人のあいだで大評判になり、権威あるニューヨーク・タイムズ・ベストセラー・リストのハードカバー・フィクション部門第一位に輝くなど、各種ベストセラー・リストの上位を賑わすようになり、それまでSF&ファンタジー界の「枠内」での有望な新人作家だった著者にその枠を飛びこえさせました[注2]。
『バベル』の評価の高さは、数々の文学賞の候補になり、何度も受賞したことからも明らかです。英国の雑誌〈ザ・ブックセラー〉が主催するブリティッシュ・ブック・アワードのフィクション部門を受賞し[注3]、SF&ファンタジー界の賞では、ネビュラ賞長編部門とローカス賞ファンタジー長編部門を受賞しました[注4]。
また、本書は、大部かつ濃密な小説でありながら、英語圏に留まらず、世界各国で次々と翻訳されました。私が調べたかぎりでは、現在二十カ国十八の言語で翻訳されており、原書発売のわずか三カ月後の二〇二二年十一月に出版されたスペイン語版を皮切りに、二〇二三年にハンガリー、ポーランド、ドイツ、ロシア、ポルトガル、台湾、イタリア、スロバキア、ウクライナ、フィンランド、中国大陸、フランスで、二〇二四年に入ってブラジル、チェコ、スウェーデン、デンマーク、インドネシア、トルコ、イランで翻訳されています。私が入手した中国大陸版の奥付を見ると、二〇二三年十月初版発行、翌十一月で三刷りとなっていますので、中国でも大人気だったようです。
と言いますか、本書の中心テーマは「翻訳」ですので、世界各国の翻訳家がこぞって惚れこみ、競うように翻訳に取り組んだのは、当然かつ必然だったと思われます。
尊敬してやまない先輩翻訳家である故浅倉久志さんが、まだ日本ではそんなに人気がなかった時代のフィリップ・K・ディックの長編『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)を訳されたさいの訳者あとがきに、有名な文章があります――「いつもだと惚れこんで訳しはじめたつもりが、半分いかないうちに熱のさめてくる飽き性のぼくなのに、この長篇にかぎってふしぎにそれがなかった。いや、校正のためにゲラを読みかえしたときでさえ(そして、今回新版のために手を入れ、再度ゲラを読みかえしたときでさえ)、傑作だという確信は揺るがなかった。だから、もしあなたがいま書店でたまたまこのページを開いておられるとしたら、ためらわずにお買いになるべきだと思う[注5]」
三十歳で翻訳を生業にして以来、いつかこの浅倉さんの言葉を引用できるような作品を訳したいと願いつづけてきました。翻訳家生活三十六年目のいま、ついにそれが実現できる作品に出会えました。それが『バベル』です。実際、この作品のゲラを読みかえしていたさい、最終盤にいたっても、原書を読んでいたときや翻訳をおこなっていたときと変わらぬ胸に響く強い思いを抱きました。「感動」という二語でまとめられるような単純なものではなかったと思います。売らんかなのつもりで書いているとみなされがちなのは重々承知のうえですが、噓偽りなく、掛け値無しに、本書は本好きであれば、だれもがみな読む価値がある作品です、と断言できます。
では、具体的にその魅力や人気の理由を説明しましょう。
まず、《ハリー・ポッター》シリーズの延長線上にあるダーク・アカデミア小説の傑作であること。『バベル』は、いわゆる架空歴史物ですが、現実世界と異なっている設定は、ただひとつ。「銀」を用いて翻訳を媒介にして、魔法的な力を振るえる世界であることです。つまり、魔法が使えます。杖を用いて魔法を使う学園小説といえば、ハリポタであり、魔法と学校の組み合せがある小説は、『ハリー・ポッターと賢者の石』(1997)が出て以降、すべてハリポタの流れをくんだものと言っても過言ではありません。本書も杖の代わりに銀の棒を振るい、呪文代わりの「適合対」を口にすることで魔法を実行していることから、明らかにハリポタを意識しているでしょう。ハリポタと異なるのは、前者がシリーズを通してローティーンからハイティーンにいたる年齢のハリー・ポッターを主人公とした、小学生から読める児童文学である一方、『バベル』の主人公ロビン・スウィフトの行動が描かれるのは、大学生時代が大半で、ミドルティーン以降を対象読者とした物語である点です。ハリポタを卒業したあとに読んでほしい作品と言えるかもしれません。なお、個人的には、作中で描かれた語学の勉強と試験に苦労する主人公たちの姿は、外国語大学出身の訳者の学生時代の経験とシンクロするところが大いにあり、外国語専攻の学生や卒業生には共感していただけるのではないかなとも思いました。
そしてコロナ以降、海外の若者(学生)のあいだで「ダーク・アカデミア」というサブカルチャーが流行しているということがあります。要するに、十九世紀から二十世紀初頭のヨーロッパの知的な(アカデミックな)雰囲気とダークでミステリアスな雰囲気を組み合わせ、学問への情熱と古典的な美意識を中心に据えたサブカルチャーとして元々あったもので、これがコロナ禍で若者たちが学校に通えず、外出もままならなくなった時期に注目を浴び、ネット上でその雰囲気を醸し出した仮想空間を作りだす動きが盛んになりました。その流れで、ダーク・アカデミア小説が、ひとつのサブジャンルを作るくらい小説分野でも活況を呈しています。乱暴な言い方をすれば「暗い雰囲気の学園小説」なのですが、最近邦訳されたものでは、オリヴィー・ブレイクの『アトラス6』(2020)がそれに該当します。『バベル』がブレイクしたのは、このサブカルチャーにもっとも注目が集まった時期に、理想的なダーク・アカデミア小説として登場したという理由もありました。
次に綿密な下調べに基づいて書かれた歴史小説としての説得力。膨大な注釈が『バベル』の特徴のひとつですが、それからもわかるように、十九世紀前半を舞台にするにあたって著者は研究者としての能力をフルに発揮して、各種史料を読みこなし、説得力あふれる歴史的背景を持った作品に仕立てあげています。噓っぽさを極力感じさせずに噓を読ませるのが小説の醍醐味だと思います。
最後に、混迷を極める現代を生きるわたしたちに対する力強いメッセージ。十九世紀を舞台にしていても、登場人物、とくに主人公の考え方や問題意識は、著者の持っている現代人のそれです。作中の登場人物たちの発言や行動は、著者からの問題提起として受け止める読み方が可能です。たとえば、本書に関するインタビューで、著者は次のように答えています――「『バベル』は、明らかに自分たちのために設計されたものではない世界、それにもかかわらずその一部になりたいと切望している世界を切り抜けていく学生たちの生き方を深く掘り下げて描いています。そういう生き方はヴィクトリア朝時代に限った特異な側面ではなく、白人が優位を占めている教育機関で学ぶ黒人・先住民・有色人種の学生であれば、普通のことなのです[注6]」この発言は、大学における著者自身の体験から出たものでしょう。
以上、くだくだしく述べましたが、煎じ詰めれば、この傑作をどうか読んでください、ということに尽きます。本書がみなさまの読書生活を豊かに彩ることを願ってやみません。
二〇二四年十一月
■R・F・クァン著作リスト
1 The Poppy War(2018)ファンタジー〈ケシ戦争〉三部作の第一部
2 The Dragon Republic(2019)同、第二部
3 The Burning God(2020)同、第三部
4 Babel(2022)本書
5 Yellowface(2023)一般小説
6 The Best American Science Fiction And Fantasy 2023(2023)編書(J・J・アダムズとの共編)
7 Katabasis(2025予定)ファンタジー
■脚注
[1] 原題を直訳すれば、『バベル、あるいは暴力の必要性――オックスフォード翻訳家革命秘史』になるところだが、邦題は、冗長になることを懸念して、「あるいは暴力の必要性」を省いた。
[2] 翌二〇二三年にペーパーバック版が発売されたが、二〇二四年十一月時点でも、〈ローカス〉誌ベストセラー・リストの上位に入っている。
[3] 二〇二四年に長編第五作Yellowfaceで二年連続同賞を受賞している。
[4] 英米SF&ファンタジー界の賞は、ネビュラ賞とヒューゴー賞が突出して有名で、これにローカス賞と世界幻想文学大賞を加えた四つがメジャーどころ。『バベル』は、世界幻想文学大賞長編部門の最終候補になったが、受賞ならず。ヒューゴー賞に関しては、〈紙魚の手帖〉Vol.18(二〇二四年八月号)掲載の拙稿「人間的な、あまりに人間的な――二〇二三年ヒューゴー賞騒動」(https://note.com/tokyosogensha/n/nfc1b8f7ee247)をご参照いただきたい。
[5] 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ハヤカワ文庫SF、一九七七年)より。
[6] 〈ファンタジー・マガジン〉二〇二二年七月号掲載インタビューより。
■古沢嘉通(ふるさわ・よしみち)
1958 年北海道生まれ。大阪外国語大学デンマーク語科卒。訳書にマクドナルド『火星夜想曲』、コナリー『復活の歩み リンカーン弁護士』、プリースト『夢幻諸島から』、ケン・リュウ『紙の動物園』他多数。
■書誌情報
書名:バベル オックスフォード翻訳家革命秘史
著者:R・F・クァン
訳者:古沢嘉通(ふるさわ・よしみち)
判型:単行本(四六判上製)
定価:上3300円(本体価格3000円)、下2750円(本体価格2500円)
頁数:上480ページ、下336ページ
装画:影山徹
装幀:岩郷重力+W.I