洗脳(その1)日本人を日本人以外の何者かにしようという企て
まえがき
洗脳(マインド・コントロール)というものが広く社会に知られるようになったのは、1990年代、オウム真理教の活動が報道されるようになってからだと思われる。この教団の熱心な信者は全財産を教団に寄進し、出家と称してサティアンと呼ばれる合宿所のような住まいで集団生活を営み、瞑想・ヨガ等に励んでいた。その異様な姿がテレビを通じてお茶の間に飛び込むようになり、それを見た信者の家族・友人が心配して家に帰るよう説得を試みるが、信徒はとりあわない。彼らはマインド・コントロールされているからだ、という認識が一般化した。
やがて教団の幹部信者が地下鉄でサリン(猛毒化学物質)を散布するという凶行に及び、多数の被害者を出した。この事件を契機として、オウム真理教がサティアンで密かにサリンを製造していること、大量のライフル銃を所持していること、軍用ヘリコプターまで所有していること、過去、いくつかの殺人事件に関与していることなどが明らかになった。また、実行犯の多くが高学歴エリートであることが判明した。
オウム真理教による一連の凶悪犯罪の実態が明らかにされていくに従い、社会的結論として、凶行に及ばなかった一般信者も、そして殺人鬼と化したエリート幹部信徒も、そのいずれもが、教祖・麻原彰晃によってマインド・コントロールされていたのだ、という理解に至った。
その一方、オウム真理教が登場する前の1980年代、統一教会(その関連団体である原理研究会、勝共連合等)という韓国を本貫とする教団が霊感商法、合同結婚式、多額の献金と、これまた衝撃的な社会問題を引き起こしていた。そのとき社会はマインド・コントロールという言葉を知らなかった。統一教会による反社会的活動は1980年代、1990年代、そして今日に至るまで、引き続き日本社会に広く浸透していたにもかかわらず、オウム真理教の陰に隠れ、その実態が永らく表面化することがなかった。
2022年7月、安部元首相暗殺事件である。この事件により、統一教会の高額献金被害問題、二世信者問題、安部元首相を筆頭とする自民党有力国会議員等との関係がメディアに取り上げられ、社会問題化した。
しかしながら、教団と信者の関係、すなわち、教団によるマインド・コントロールのあり方を深く問う問題意識は十分とはいえない。元信者の口から、統一教会が生活者に接し、生活者を信者にし、生活者の生活を奪う過程は語られてはいるものの、外部の人間がそのことを真に理解できているとは言いがたい。生活者が信仰に至り、教団の誘導のまま自身の生活を破壊し、たとえば教団に高額献金をする気持ちの変化が理解しにくい。マスメディア、SNSには、元信者が自らの体験を語る映像等がしばしば流れているのにもかかわらず、それを見聞きする側の理解は深まることがない。「なんで、あんなわけのわからない宗教にはまるんだ」「やめればいいじゃないか」「先祖解怨なんてばかじゃないの」「集団結婚式で韓国の男性と結婚するなんて信じられない」「献金?自発的にやっているんだから、取り締れないよ」という無理解がはばかるのである。
信者と非信者(社会一般)を阻む厚く高い壁ーー筆者は統一教会、オウム真理教等のカルト宗教との闘いは、洗脳について考えることなくしてはなしえないという確信に至った。そして、洗脳というのが狭くほの暗い部屋に閉じこもった宣教者と信者による秘儀的行為に限定しえないこと、また、筆者を含めた多数者が〈こちら側〉だと信憑している世界が実は、洗脳によって描き出された〈あちら側〉の世界なのかもしれないという懐疑を前提としなければならないと考えるに至った。かかる立論を導く作業は、江藤淳(1932-1999) の『閉ざされた言語空間』およびナオミ・クライン(1970-) の『ショック・ドクトリン』の2書を読み解くところから開始される。
『閉された言語空間 (江藤淳著)』を読む
同書は、「米国は日本での検閲をいかに準備していたか」「米国は日本での検閲をいかに実行したか」の二部によって構成されている。
(一)GHQの占領政策 〝検閲・調査・教育”の3点セット
アジア太平洋戦争に勝利した米国が日本帝国を占領統治したとき、米国政府諜報機関(Intellogence service)は日本人の洗脳に着手した。その手法を大雑把に示せば、①日本の報道機関等への検閲、②日本国民の意識調査(情報収集=私信の開封、電話盗聴)、③教育・情報宣伝ーーの3点セットだった。その目的は占領軍の安全確保である。日本帝国政府が無条件降伏したとはいえ、それまで血みどろの殺し合いをしていた相手国に入国するのである。占領軍に対する徹底抗戦の可能性が完全に排除されたわけではない。ゲリラ戦、テロ、交通妨害、サボタージュ、ストライキなどの抵抗が予想された。
①はそれらを煽動するような日本の報道および言論人の言説を事前検閲で封じようとした。また、占領軍の動向は、徹底抗戦を策する日本の地下組織(当時そのような組織が実在してたかどうかは別である)に知られてはならない軍事秘密である。そしてなによりも重要だったのは、占領軍兵士の犯罪(日本人に対するレイプ、暴力、強奪等)、および、戦時下、連合軍による戦争犯罪(沖縄地上戦における民間人殺害、広島・長崎における非戦闘員=市民にたいする核攻撃、都市無差別空爆、民間船舶無差別攻撃等)が国内外に広く報道されることを未然防止することだった。
②の目的は、占領下の日本人が占領軍兵士、連合軍にどのような感情を抱いているかを調べ上げることだった。連合軍が予定していた「戦犯裁判」において日本帝国軍の戦争犯罪者を裁くとなると、当然、処刑される者が出てくる。そのことについて、日本人はどのように感じ、どのような行動を引き起こすのか、占領軍は神経をとがらせた。
③は連合軍が日本国民に対して行った非人道的戦争犯罪(広島・長崎核攻撃・都市無差別空爆等)は、日本帝国軍の指導者がもたらせたものだという認識を日本人がもつような情報操作を企図した。日本人の侵略思想およびその背景となっていた天皇制ファシズム思想を日本人の心から排除すると同時に、日本人が敗戦による窮乏と戦争の傷が反米愛国運動に結びつかないよう、情報操作しようと企てた。
江藤淳はかかる連合軍=米国=占領軍による日本人に対する洗脳3点セットについて、「日本を日本ではない国、日本人を日本人以外の何者かにしようという企て」と評した。〔後述〕
以下、筆者は江藤がいう、米国による日本人洗脳という立論を読み解くと同時に、江藤の立論の検証も試みる。
(二)米国は日本での検閲をいかに準備していたか
米国における戦時情報統制(検閲、調査および情宣)システムが本格的に構築されたのは、第一次大戦を契機とする。この大戦が〈総力戦〉と呼ばれる所以は、国民総体が戦争勝利のためにあらゆる場面で国家に協力することを余儀なくされるようになったからだ。戦時体制下、軍事的協力はもとより、経済活動、文化活動(宗教、思想、表現等)、情報活動(言論、報道)といった、米国憲法が保証する基本的人権の尊重、なかんずく、表現の自由が制約を受けるようになった。戦時下、敵国に有利となる情報の発信を制限することは、言論の自由を侵犯することにならない、という一見、自明の政府側の論理が「民主主義国家」に一般化するようになった。この時期、マスメディアの驚異的発展が戦時下の国家の脅威となったことがそのことをいっそう促した。
検閲は占領統治における最重要政策
第二次大戦(米国からみた欧州における対独・伊戦、アジア・太平洋における対日戦)において、米国の戦時情報統制はより洗練化されていく。そしてなによりも注目すべきは、戦時下の国内にとどまらず、対戦国に勝利したのちの占領統治における最重要政策として、それが位置づけらるようになったことだ。
米国は日本帝国との戦争に勝つという前提の下、対日占領下の情報統制策の準備を周到に進めていた。江藤淳はその過程を米国の戦時資料に基づき明らかにしていく。米国の立案(基本計画から組織・体制づくり・予算策定・人材登用等)から実施に至る綿密さと推進力は想像をはるかに超えている。また、米国が目指した占領下の情報統制は容赦なく拘束的である。本書を読むだけで、日本帝国が仕掛けた対米戦争がいかに無謀であったかを思い知らされる。
ポツダム宣言受諾 戦後日本の始まり
対日戦争に勝利した米国が目指した占領下日本における情報統制において、最初に障壁となったのは皮肉にも、連合国が日本に発出した「ポツダム宣言」だった〔後述〕。同宣言は極めて重要な規約であるから、全文 (Wikipedia編集者訳)及び同宣言受諾の大雑把な経緯を掲載する。
同宣言はベルリン時間の7月26日午後9時20分に発表され、東京時間7月27日午前5時、西海岸の短波送信機から英語の放送が始まり重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文は東京時間午前7時、サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は西海岸の11の短波送信機、ホノルルの短波送信機、サイパンの中波送信機が繰り返した。すべての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
日本帝国が同宣言の受諾を決定したのは、1945年8月14日付の終戦の詔勅の発出であるから、実に宣言発出から20日間が経過したのちのことだった。その間に広島・長崎への核攻撃(8月6日・9日)、ソ連参戦(8月9日)があった。国民に宣言受諾、降伏決定を発表したのが8月15日正午の玉音放送である。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日、更に正式に終戦協定及び降伏が調印されたのは9月2日である。
米国の情報統制の障壁となったポツダム宣言
米国国務省の見解では、〝「ポツダム宣言」は、受諾されれば、国際法の一般規範によって解釈されるべき国際協定となる”とされた。国際協定である以上それは当然、双務的拘束を有すると解釈される。
この言説が意味するところは、第二部において詳述される。
(三)米国は日本での検閲をいかに実行したか
連合国が発したポツダム宣言は、占領下日本における言論の自由を保証した。だがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)を通じて、米国政府はその解釈を逐次変更する。同書第二部においては、そのプロセスが明らかにされる。
2つの洗脳の狭間 敗戦直後の日本
日本がポツダム宣言を受け入れ、米軍を中心とした連合軍が日本に駐留する。敗戦国民である日本人は占領軍をどのような心情で迎え入れたのか。江藤淳は、占領軍兵士のわがもの顔の振る舞いと軽薄そうに見える態度に対して、日本国民は不快感を抱いていたとしたうえで、以下のような市井の日本人の私信を掲載している。これら私信は米軍検閲官が無断で開封したものである〔後述〕。いずれも、敗戦直後、8月~9月に認められた。
一方、思想家・吉本隆明(1924-2012) は、戦時中の自分は軍国少年だったこと、敗戦後の占領軍の「民主主義」を肯定したことをことあるごとに公言していた。そしてそのうえで、ある講演会で次のような発言をした。
江藤が引用した私信と、吉本が目撃した日本軍兵士に対する述懐のどちらが日本国民を代表するのかは判断することはできないし、しても意味はない。ただ言えることは、江藤が引用した私信の書き手はいまだ、日本帝国のマインド・コントロールのなかにあること、一方、吉本が目撃した日本兵たちは敗戦を契機として日本帝国のマインド・コントロールから解放され、まずなによりも自分と家族が生き延びることに邁進していたーーということだ。神の国の軍隊を信じ、敗戦に至っても勇猛で最後の最後まで戦う無敵の日本帝国軍を信じた市井の日本人と、敗戦により、その呪縛を自ら解き放ち、闇貯蔵の食料をかっさらいリュックに詰める日本帝国軍人ーーマインド・コントロールをめぐる二極的併存こそが敗戦直後の日本の情況だった。
連合軍の検閲体制
GHQにおける検閲等情報統制任務に当たったのは、対敵諜報部隊(CIC/ Counter Intelligence Corps )と、遅れてCICの耳目として日本全国に散開し、諜報活動に従事した前出の民間検閲支隊(CCD / Civil Censorship Detachment )の2つの組織だった。CCDは日本占領前、日本の新聞・放送の検閲を行うとされていた広報担当将校(PRO/ Public Relations Officer)にかわってその任にあたることになった。そして、現地(日本)における新聞および放送の検閲は、最高司令官の定める政策に従い、対敵諜報部長の指揮下において、太平洋陸軍民間検閲支隊がこれを実施することを定めた、「1945/9/3付、ソープ准将の命令書」が発出された。そこには次のような、計画事項が付されている。注目すべき項目(の概要)を以下に示す。
占領軍兵士の犯罪を報道し続けた日本の同盟通信社
第七項が注目される。占領下、日本のメディアである同盟通信社〔注3〕の活動である。同盟通信は占領軍におもねることがなかった。世界中の通信社が日本に支局をもたなかった敗戦直後、同盟通信は占領下の日本の状況をほぼ、独占的に海外に発信し続けることができた。彼らが敗戦~占領下にあって、自由に仕事を続けたのは、前出のポツダム宣言という国際条約が戦勝国⇔敗戦国に対して、双務的に、報道の自由を保証することを理解していたからにほかならない。言論の自由、報道の自由が国際法上、敗戦国にも適用されることを知っていたからである。同盟通信が世界に向けて発信する記事には当然、占領軍にとって不都合な真実が含まれていた。
同盟通信の短波放送は、占領軍の動静をスクープするのみならず、占領軍将兵の行動についても詳細に報道し続けた。
GHQ最高司令官マッカーサーは当初、ポツダム宣言は、戦勝国、敗戦国に対して双務的であるという解釈をしていたことが「政策文書SWNCC150/4の草案」(初期対日方針(Initial Post-Surrender Policy for Japan) でわかっている。そのことは、〈特に内示された指令は、いくつかの点において降伏文書とポツダム宣言に規定されている諸原則を著しく逸脱していると思われるので、小官(マッカーサー)は所見を貴官(陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル)に上申しておかなければならないと感じています。〉という記録によって実証されている。
マッカーサーの解釈を超えて同盟通信の報道を規制しようとする命令書が発出されたことは、米国の対日占領政策の大転換を象徴する。江藤淳は次のように書いている。
GHQの次なる一手は9月10日付で発出された、5項目の最高司令官指令(SCAPIN-16)である。この指令を準備したのは後の新聞映画放送部(Press,Pictoria and Broadcast Division/PPB)である。PPBはやがてCCD部内で最大の組織になる〔後述〕。指令の内容は以下の通りである。
日本を日本ではない国、日本人を日本人以外の何者かにしようという企て
日本の報道各社も同盟通信社と歩調を合わせるように、自由な報道活動を続けていた。それに対して、GHQは「新聞報道取締方針」を1945年9月10日付で発出したのだが、報道各社はそれを無視した。同盟通信は、「新たに1万名の米軍部隊が、近日中に東京地区に移駐する予定である」と報じた。この報道が直接的契機となり、GHQが動いた。占領下、日本の報道機関の自由を完全に拘束する事態が、すなわち、占領下の日本の報道機関の状況を一変させるような、江藤淳に言わせれば、「CCDが、日本の報道機関めがけて振り下ろした最初の斧の一撃」が加えられたのである。
民間検閲支隊長ドナルド・フーヴァー大佐は、同盟通信社社長古野伊之助、日本放送協会会長大橋八郎、情報局総裁河合達夫、日本タイムズ理事東ヶ崎潔らの日本報道関係代表者を総司令部に召致し、検閲についての声明(命令)をくだした。声明の要旨は以下の通りである。
同盟通信社の業務停止処分。理由は前出の「米軍部隊1万人の東京移駐」のような「新聞報道取締方針」に従わなかったこと。
同方針に違反するものはいかなる機関といえども同様に業務停止を命じる。
マッカーサー元帥は、連合国がいかなる意味においても、日本を対等と見なしていない。
日本はいまだ文明国のあいだに位置を占める権利を認められていない敗者である。
以下、命令文をそのまま表記する。これはポツダム宣言を否定する内容を明記したものであり、連合国(=米国)の日本占領政策の本音すなわち日本征服を明確に表している。〔後述〕
江藤淳はこの命令文について次のような解釈をしている。
米国国務省はポツダム宣言発出当初、日本側と同様、この宣言が戦勝国、敗戦国による双務的・相互拘束的な契約文書であるという理解をしていたのである〔前出〕。同宣言は講和条約締結までのあいだ、日本と連合国との関係を規定すべき基本文書にほかならない。同宣言を日本が受諾した時点で、米国の対日占領政策の大本を拘束する協定文書となったのである。ところが、米国は同宣言の拘束を力ずくでかなぐり捨てた。江藤淳は以下のように書いている。
敗戦国日本の報道機関が伝えた〈真実〉は、占領する米国にとって不都合な真実、すなわち米国にとってなかったことである。真実かそうでないかを決定するのは〈力〉である。もしかりに、力をもつものが(その者にとって不都合な)真実を放置してしまえば、〈力〉を喪失してしまうことにつながる。それゆえに、真実は虚偽となる。江藤淳は次のように続ける。
抵抗する日本の報道機関、弾圧強めるGHQ
日本の報道各社は《フーヴァー大佐の声明を「なお一片の声明」として受け取ったに過ぎない(P186)》と江藤淳は書いている。声明を無視して、抵抗の姿勢を示す新聞、雑誌があとを絶たず、CCDはその都度、発行禁止と押収で対抗せざるを得なかった。まず「朝日新聞」が発行停止処分を受けた。その理由は、鳩山一郎の米軍批判を掲載したことによる。鳩山は、米国による原子爆弾使用、無辜の日本国民殺傷、病院船攻撃といった国際法違反、戦争犯罪を批判したのである。さらに「東洋経済新報」が押収された。理由は米軍の暴行批判の記事を掲載したことによる。
日本出版法
日本出版法は、それ以前に発出された「日本新聞遵則」「日本放送遵則」を統合したものである。米国太平洋陸軍総司令部民事検閲部が発出し、以後6年間にわたり日本の言語空間を拘束した。その内容をみてみよう。
条文は報道における普遍的なあり方を謳っていて、注目すべきものはない。しかし、同法発出以降、CCDの検閲は厳しさを増していく。CCDは、日本の政府と報道機関のあいだにくさびを打ち込んだ。連合国最高司令官官房から日本帝国政府に対する指令(経由・終戦連絡中央事務局)、すなわち「新聞界の政府からの分離に関する件」であった。その趣旨を要約すると、
江藤淳はこう書いている。《一見して明らかなように、・・・同盟通信社に重ねて死の一撃を加えることを企図した指令にほかならなかった(P198)》。同社社長古野伊之助は3日後に同社解散の意向を明らかにした。
ジャーナリズムの国家に対する忠誠という「根本問題」
同盟通信社解散後、GHQによる日本の新聞の忠誠心を試みるかのような事件が続発する。
・9月25日:天皇は「ニューヨークタイムズ」特派員フランク・クラックホーンとUP通信社社長ヒュー・ベイリーの2人の外国人記者にはじめて謁見を許した。2人のインタビューは即座に全世界に打電されたが、日本の新聞には数日間掲載されなかった。
・9月27日:天皇は自らの発意で米国大使館の赴き、マッカーサーを訪問した。「朝日新聞」は米国大使館で撮影されたモーニング姿の天皇と開襟シャツ姿のマッカーサーとのあの有名な記念写真の掲載を控えた。
・9月29日、占領軍総司令部から配布されたと思われる記念写真とインタビュー記事が各紙に掲載されると、内務省は直ちにこれを差押え、新聞の頒布を禁止した。その根拠は日本帝国が1909年に公布した「新聞紙法第23条」である。その規定は以下の通り。《内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキハ其ノ発売頒布ヲ禁止シ必要ノ場合二オイテハ之ヲ差押フルことヲ得・・・》
江藤淳は次のように書いている。
筆者の見解を示そう。天皇とマッカーサーの会談及び記念写真はGHQ、すなわち米国政府が企図した情報操作の一環である。礼服の天皇が普段着のマッカーサーとカメラに収まるということが意味するのは、天皇がマッカーサーに恭順の意を示している、という象徴的記号であって、天皇の意志によるものかどうかもわからないし、そのことはどうでもよい。写真は真実というよりも、そのような会談があった事実の証明であって、それがなにがしかの真実を証明するわけではない。
占領下の日本政府が現行法(敗戦前の国内法である「新聞紙法」)を使って記念写真を差し押さえたのは、日本帝国についての評価をひとまず留保するならば、法治国家として当然のことである。
1945年8月15日以降、連合軍が進駐してからの日本の状況はいわば、二重権力状態にあった。江藤淳は「ジャーナリズムの根本問題」というが、二重権力下、ジャーナリズムは2つの権力のどちらかに忠誠を尽くすことを決断しなければならないような機関ではない。近代主権国家におけるジャーナリズムは、けっきょくのところ、権力に従属せざるを得ず、力によって規定される存在になってしまう。
ただ一点確認すべき重要なことは、米国がポツダム宣言という国際法を無視して、征服者、支配者として振舞ったということだ。一方の日本のジャーナリズムは、戦前、日本帝国下においては、天皇と帝国政府に忠誠を尽くした。そして、連合軍による占領下、それは新たな支配者である米国に忠誠を尽くすよう強要されている。占領下の日本帝国政府が米国による日本のジャーナリズムへの強制、強要を排除しようとするならば、もう一度、戦争をして連合軍を日本の地から追い出すしかない。なお、ジャーナリズムに対する、日本帝国流、米国流の検閲手法の違いについては、この後に詳述される。
GHQの容赦のない対応
法務省による「抵抗」に対する総司令部側の対応と報復は迅速かつ容赦のないものだった。「新聞と言論の自由に関する新措置(9月27日付)」の発令である。同措置は8項目あり、▽日本政府は新聞、通信の自由に関する平時・戦時の制限措置を即時中止すること、▽新聞その他刊行物、無線、国際電信電話、国内電信電話、郵便、映画その他一切の文字及び音声に対する検閲は、最高司令部が特に承認した制限によってのみ取締られること、▽日本政府は、いかなる政策ないし意見を表明しようとも、新聞、その他発行者、または新聞社員に対して、懲罰的措置を講じてはならないこと、などが規定されている。この措置は一見すると戦前の日本帝国が行ってきた言論統制・弾圧からの解放を謳っているようだが、実態は言論統制の権限を日本帝国からGHQに移管しただけのことである。江藤淳はこの新措置の与えた影響について、《深刻な影響を、以後日本のジャーナリズム全体に対してあたえた》と憂慮してみせた。江藤の解釈をみてみよう。
ジャーナリズムは国家に忠誠を尽くすべきなのか
筆者は江藤淳のこの立論を支持しない。その理由は、ジャーナリズムの理想のあり方とは、(それが実現できるかどうかは別として)、国家を超えたところにあると考えるからだ。日本のジャーナリズムは戦前・戦中、なかんずく戦中において、国家の広報部門として、大本営発表をたれ流し続けた。戦況の悪化を知りながら、国家の命ずるまま、そのことを隠蔽し続けた。日本のジャーナリズムは日本帝国軍隊が連合軍にたいして決定的に不利な状況にあることを知りながら、国民に報じなかった。本土決戦、竹槍攻撃を扇動した。同盟通信が外地における戦況を客観的に国民に報道していたならば、日本国内の厭戦気分を盛り上げ、反戦運動に結びついたかもしれない。米軍による、沖縄地上戦、都市無差別大空襲、広島・長崎核攻撃、そしてソ連参戦といった、日本の非戦闘員大虐殺を避けられた可能性があったかもしれない。
そもそも、前出〔注3〕の通り、同盟通信社は日本帝国が中国侵略を開始した満州事変(1931)を機に設立が議論され、1936年に設立された国策通信社である。その翌年、日華事変(日中戦争)が始まったことは同盟通信社の設立の意味を象徴する。同盟通信は日本帝国と一体的な、すなわち、日本帝国の情報機関の一部と見なして差しつかえない。
占領下、同盟通信は連合軍の非を報道した。それは結構なことである。占領軍の非道は断固非難されるべきである。だが、そのことは同盟通信がジャーナリズムの理想のあり方である正義と公正を貫いた結果としての報道であったのかについては疑問符がつく。同盟通信はポツダム宣言の規定により生じた二重権力下、敗戦国である日本帝国の利益のため、占領軍を貶める情報を世界に流したのではないか。同盟通信は日本国民、日本の生活者に目を向けたわけではない。同盟通信は権力者すなわちこの時点で、敗戦国・日本帝国の一部であり続けたのである。
一方のGHQも占領軍兵士のモラル崩壊を律することができなかった。そのことを報道されると、検閲強化で報道機関を締め付けた。征服者として振舞ったのである。勝者米国にも、敗者日本帝国にも、報道における正義は存在しなかった。前出の通り、GHQは、戦時下、日本帝国政府が報道機関に課した制限措置を即時中止すること、その代替措置として、GHQが言論・報道を検閲することとし、その限りにおける、すなわち、戦勝国である米国に都合のいい報道・言論の自由を日本にもたらしたにすぎない。
敗戦国日本における「民主主義=表現の自由」の出発点すなわち原点は、かくも貧しく不正義に満ち満ちたものであることを江藤淳は立証した。日本帝国による検閲は占領軍によって廃止されたけれど、占領軍による新たな検閲が開始されたにすぎなかったのだから。
GHQによる、さらなる検閲体制の整備と強化(PPBの新設)
9月30日以降、GHQは占領下の日本における検閲体制を整備するとともに、一層の強化を図った。まず、CCD内に前出の新聞映画放送部(PPB/Press,Pictorial and Broadcast Division)を新設した。PPBは、日本の新聞、あらゆる形態の印刷物、通信社経由のニュース、ラジオ、ニュース映画および劇映画を通じて日本国民に頒布されるあらゆる題材の検閲を所管し、それらはすべて、PPBの事前検閲を受けなければならなくなった。
日本のニュース映画プリントも試写の段階で検閲されるようになった。日本で製作される一切の映画、宣伝媒体に属する他の娯楽も事前検閲を受けるようになった。PPB内の調査課は、日本の出版社と出版物の背景を調査し、情報記録部の作成する報告書の部分的裏付けとして、種々の報道に対する日本人の反応を査定することとなった。
秘匿された検閲体制
日本におけるニュース報道、映画、出版は事前検閲を余儀なくされたばかりか、PPBによる事前検閲を秘匿することが義務付けられた。秘匿の強制は、検閲者と被検閲者のあいだいに否応なく闇を成立させている価値観を共有させられてしまうと、江藤淳はいう。
被検閲者は検閲という強制に反感、抵抗を示すのではなかという一般的通念を、江藤は否定する。むしろ秘匿という関係性を強制されることにより、検閲者と一体化してしまうというのである。江藤は、このような傾向を文化人類学におけるタブーの伝染という現象で説明する。この部分はおそらく、同書のクライマックスというべき箇所なので書き抜いておく。
(四)GHQによる日本人の意識調査
CCDは私信をも開封した
占領下における民間人の私信を開封し、検閲及び民意調査の任に当たったCCDは、CI&E(Covil Infomation and Education Section,民間情報教育局)によってコントロールされていた。CCD郵便部は月間400万通の私信を開封し、詳細にその内容を検討していた。また、CCD電信電話部は2万5000の電話を会話を盗聴していた。とりわけ戦犯容疑者の私信については検閲スタッフに「業務規則」を定めた。
CCDが目指したのは新聞・雑誌・放送・映画等の事前検閲と民間私信の検閲を通じて、勝者(占領軍)に対する敗者(日本人)が抱いている感情に係る情報を収集し、占領政策に反映させていたことになる。そればかりではない。CCDは在日米国人、外国人、連合軍兵士の私信も検閲していたことがわかっている。日本人に同情したり、協力的である連合軍兵士、米国を含む海外のジャーナリストらが「注意人物」としてマークされたのである。
(五)ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)
CCDが日本の報道・言論機関及び民間私信を徹底的に検閲し情報収集に当たった最大の理由の一つが、「極東国際軍事裁判」を控えての戦犯容疑者と戦犯裁判に対する日本国民感情の動きの察知であった。米国が最も恐れたのは、極東国際軍事裁判批判が占領下日本に湧き起こり、占領軍に対する敵意、憎悪が再燃する事態だった。その予防策としてCI&E(民間情報教育局)が構築したのが「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」すなわち戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画である。
戦争を起こした軍国主義者が悪い
同事業は先述した、占領下の日本人が占領軍に抱いている感情についての調査に基づき立案計画されたことはいうまでもない。同プログラムの目的は、CI&E(民間情報教育局)からG-2(SIS・Civil Inteligence Section・参謀第二部民間諜報局)に宛てた文書に明記されている。
同文書には、「占領の初期においてCI&Eが民間情報の分野で一連の『ウォー・ギルト』活動を開始していた事実に触れており、それが一般命令第4号(SCAP・1945/10/2. 第2項”a”(3)にもとづくものであることがあきらかにされている。この条項は次の通りである。
同プログラムの目的・企図は明確である。それは敗戦により日本人にもたらされた惨状(戦争被害及び飢餓窮乏)は、戦勝国である連合軍によるものではなく、戦争を引き起こした日本の軍国主義者のせいである。ゆえに、連合国は日本の軍国主義者にその責任を負わせるために(日本を)占領しつづけ、いまおこなわれている軍国主義者による超国家主義的宣伝に対抗するのである、と。
『太平洋戦争史』の連載企画
同戦史は約1万5千語の分量をもつ連載企画で、CI&Eが準備し、G-3(参謀第三部)の戦史官の校閲を経たものである。1945年12月8日に掲載され、以後ほとんどのあらゆる日本の日刊紙に連載された。『太平洋戦争史』は、江藤淳に言わせれば、《歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖したという意味で、ほとんどCCDの検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝文書である(P264)》という。マッカーサー司令部はこの連載の第1回を新聞見開き2頁に組み込むために「聯合軍司令部提供」というクレジットのはいった用紙を各新聞社に特配した。その前書には、こう記されている。
以下、その要旨を書くと、
『太平洋戦争史』宣伝文書の最後の文書にはこう書かれている。
『太平洋戦争史』を読む
同戦史は、江藤淳の説明の通り、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の趣意により、GHQによる宣伝占領政策の一つであったが、書籍として、1946年4月、高山書院から聯合軍総司令部民間情報教育局資料提供、中屋健弌訳で刊行されている。もともとの副題は「奉天事件よりミゾリー号(戦艦ミズーリ)降伏調印まで」と記されたが、書籍では 「奉天事件より無条件降伏まで」に変えられている。同書のプランゲ文庫所蔵版〔注4〕を国会図書館提供によるデジタルサービスで読むことができるので、機会があれば目をとおしてみるのもいいと思う。
実際に読んでみると、戦勝国の戦史であるから、日本帝国軍は悪であり、その無様な戦いぶりが強調されている部分もあるが、日本人を洗脳するほど強烈な内容ではない。気になったのは、1930年代の「二.二六事件」に係る記述の浅さである。たとえば、日本帝国軍内における皇統派、統制派の対立といった基本的史実が抜けている欠陥がある。とはいえ、戦勝国にとっては、考慮するほどのない史実と考えらなくもない。
江藤淳を激高させた個所はおそらく、南京、マニラにおける日本帝国軍の残虐行為に係る記述だったかもしれない。日本帝国軍の残虐行為=戦争犯罪は今日まで論争が継続している問題でもある。時の経過とともに戦争体験者が減少するばかりであるから、告白、証言等の記録が増えることはない。なによりも、歴史の修正だけは避けなければならない。
CI&E、日本帝国教育修正を強要
CI&Eは『太平洋戦争史』を教材に使用させて広く日本人に読ませると同時に、日本帝国下の教育の修正を指示した。これを受けて1946/01/16、文部次官は地方長官と各学校長宛てに「修身、国史、地理科授業停止二関スル件」と題する「依命通牒」を発した。江藤淳は次のように書いている。
GHQが提供した『太平洋戦争史』は戦後日本の歴史記述を規定したのか
筆者の受け止めである。まず、『太平洋戦争史』宣伝文書中の日本帝国の近現代史に関する大雑把な記述に異論はない。日本帝国は基本的人権を認めない専軍国家であった。自由主義者、社会主義者、共産主義者が拷問を受け、獄中につながれた。当然、表現の自由、報道の自由は著しく制限された。前出の通り、戦中における大本営発表は、真実を隠蔽した。
次に開戦~敗戦についてである。その責任はだれが負うべきなのか。開戦については、戦争を指導した天皇を含めた政府・軍部はもちろん、それを扇動したメディア、開戦を支持した日本国民にある。ところで、戦争というものは完全に相手国に勝つまで、つまり相手国が消滅するまでやるものではない。反対に、戦局がきわめて不利になった時点で休戦あるいは降伏することが肝要である。戦況に係る情報が完全に遮断されたような状況では、国民が厭戦、反戦の意思を組織して、政府に迫ることは難しかろう。となると、戦況を把握できる立場にある軍部・政府・メディアが停戦に向かう義務を負う。大戦末期の日本帝国で天皇がその立場にあったかどうかは筆者にはわからないが、日本の公式の歴史では、天皇が降伏(敗戦)を容認したことになっている。
戦争犯罪についてはどうなのか。そのことは戦勝国、敗戦国ともに情報公開されるべきである。この大戦における、前者の核爆弾の使用、都市無差別空爆、占領後の戦勝国兵士等による犯罪は厳しく罰せられるべきである。後者についても言うに及ばない。
米国の作になる『太平洋戦争史』が日本の軍国主義を批判し、戦争責任を問うた戦史として発表されること、そして、それを読んだ日本国民が自ら支持した戦争とその結果を反省すべき材料の一つとして読まれることはやぶさかでない。日本帝国政府およびその国民が戦争責任を負うことを以て、はじめて、この戦争は終結する。
江藤淳が力説するGHQの洗脳プログラム(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の駆使についてどう考えるか。日本人が占領軍=戦勝国に敵意を向けないよう仕向けたということ、すなわち、日本国民を情報宣伝で教育し、日本の軍国主義者に戦争の犠牲の責任と戦中戦後の惨禍のすべて負わせるよう仕向けたことを認めないわけにはいかない。その結果、今日に至るまで、日本国民は戦争責任を無罪放免された、と考えてしまっている部分がある。日本帝国が突き進んだ戦争と敗戦がまるで他人事になり、戦争主体を構成したはずの国民が虚妄の歴史を背負い込み、反省を放棄してしまったのである。
日本国民が関与しなかった戦争などあるはずがない。日本国民はときの政府の戦争の選択を支持すると同時に、日本帝国軍の侵略的軍事行動に喝采をおくった。それも日本帝国による日本国民に対する洗脳の結果かもしれないが、国は滅亡の危機に瀕し、多くの犠牲者を出して敗戦に至った。日本人すべてが戦争(犯罪)を反省し、侵略した周辺国に謝罪し、非戦の誓いを立てなければならないのである。日本帝国の洗脳の被害者なのだから、戦争責任はない、という論理は通用しない。よしんば洗脳状態にあったとしても、洗脳が解けた段階、すなわち戦争当事者だったことを自覚したとき、連合軍の戦争犯罪をはじめて糾弾できる。
前出の吉本隆明は、『「世界-民族-国家」空間と沖縄』という講演(『敗北の構造 吉本隆明講演集』弓立社)の中で、「ある一つの〈古い共同体〉は、べつの〈新しい一つの共同体〉と接触すると、いろいろな意味で、矛盾や逆立を起こすこと、共同体を成立せしめている〈意識〉が、閉鎖的であればあるほど、あるいは、内攻的であればあるほど、その共同体は、どういうイデオロギーによって支配されていおうと、すぐに逆転しうる」という意味の発言をし、そのうえで、戦争中、沖縄で集団自決を命令したといわれる島の守備隊長が慰霊祭への出席を沖縄教職員組合に阻止された「事件」の真相を語っている。吉本によると、元守備隊長が教職員組合が出席について話し合っているとき、彼は出席拒否の組合員に対して「ならばほんとうのことを言おうか」と開き直ったという。そしてそのとき、組合員は激しくいきり立ったという。普通に考えれば、教職員組合は革新・平和主義者で、元守備隊長は軍国ファシズムの権化だと考えて当たり前のように思える。
では、ほんとうのこととは何か――吉本は、〝集団自決はそこに駐屯していた軍の命令で起こったのではなく、自発的に集団自殺しうる要素が、沖縄の住民のなかにあった、という契機が重要だと言い、元守備隊長の出席を阻止した沖縄の教職員たちは、多少の例外があるとしても、熱狂的な戦争推進勢力だった、と指摘したうえで、沖縄の教職員というのは、かつて教師であるとともに、呪術師的要素をもっていて、本土では想像できない影響力を住民に持っていた”と断言した。呪術師的威力を有した熱狂的戦争推進者である沖縄の教職員たちが、戦後、熱烈な「平和主義者」に逆立するパターンが読み取れる。この逆立は〈孤島沖縄〉の教職員にかぎられたことではない。〈日本列島〉のおよそ全島民、すなわち、日本国民にあてはまるのではないか。
〈大東亜戦争〉か〈太平洋戦争〉か
江藤淳は、『太平洋戦争史』の宣伝文書における〈太平洋戦争〉という用語に著しいアレルギーを示し、次のように書いている。
江藤淳の指摘は半分正しいと筆者は考える。先の大戦を何と呼ぶか、今日では「アジア・太平洋戦争」という呼称が定着しているように思う。江藤が拘る〈大東亜戦争〉の大東亜とは、日本帝国時代、東アジア(「日満支」)に東南アジア、南方を加えた地域を意味していたと考えていい。それには日本帝国が全アジアを植民地化するという、戦争の「存在と意義」が主観的に表出されていた。
先の大戦における日本帝国の主戦場は、①中国、②東南アジア、③日本を含む広大な太平洋地域ーーの3地域であった。①は1931年の満州事変を嚆矢として1945年の日本の敗戦で終結した長きにわたる戦争地域である。②は「仏印進駐」と呼ばれるもので、日本帝国軍は1940年に北印に、41年に南印に進駐を開始し、英米と対峙し日米戦争へと発展する。日本帝国による真珠湾攻撃の契機となった地域である。そして、③は日本帝国が先制攻撃した太平洋上に浮かぶハワイ諸島を皮切りに、フィリピン、ニューギニア、オーストラリア近傍と、広域におよぶ。日米の戦況の転換点といわれるミッドウエー海戦、マリアナ沖海戦はハワイ諸島西の洋上である。以降、連合軍は日本軍を追尾する格好で太平洋を西に向かい、点在するいくつかの島嶼部を経て沖縄を攻略、日本列島まで迫ったところで戦争は終わった。日本帝国がいう〈大東亜戦争〉も戦争の全体像を正しくとらえていないが、米国がいう〈太平洋戦争〉も米国に偏向した呼称である。
江藤淳がいうように、戦後、歴史記述のパラダイム転換はあった。それは日本帝国が目指した全アジア(大東亜)の植民地化という戦争の存在意義が日本帝国の敗戦により頓挫し消滅したことによる。その結果、占領軍が戦争の呼称を修正することは間違ってはいないが、検閲により訂正した呼称が米国に偏りすぎて間違った。歴史を修正することはできないが、用語の誤りならば後年、いくらでも訂正することができる。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの「正当性」の法的視点
日本帝国はポツダム宣言を無条件で、すなわち、そこに書いてある文言を無条件で受諾した。そこにはーー
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
ーーと書かれている。であるから、敗戦国日本は軍国主義者の指導を退け、理性の道を歩まねばならないのであり、同宣言を発出した戦勝国(米・中・英)が日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力、すなわち日本帝国の指導者を永久に除去する(すなわち極刑を含む)ことを受諾したことになる。日本帝国の終焉と日本国の出発は、軍国主義者の永久排除が条件づけられていたのであり、それを受諾してしまった以上、覆すことは難しい。
極東国際軍事裁判と『太平洋戦争史』
江藤淳は書いている。
日本人の敗北に対する受け止めが「一時的かつ一過性のものであった」、という江藤淳の記述はどのようなことを意味するのか、筆者にはよくわからない。文字通り、日本人は戦争も敗戦も一時的かつ一過性だと考えていたということでいいのだろうか。文字通りならば、筆者は、この記述を容認しない。沖縄戦は本土決戦準備のための「捨て石作戦」だと位置付けられた。その結果、沖縄での日米両軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人であるとされている。戦前の沖縄県の人口は約49万人であり、実に沖縄県民の約4人に1人が亡くなったことになる。そればかりではない。沖縄方言を話す沖縄県人が本土からきた日本兵によって「スパイ容疑」で処刑されたともいう。このような事実が戦争直後、GHQによって公表されたことが、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」に該当するのだろうか。日本帝国が戦時中に行った戦争犯罪はすべての日本人が知らなければならない事柄だと考える。
さて、『太平洋戦争史』は文字媒体(新聞および教材採用)にとどまらず、『真相はこうだ』と題するラジオによるキャンペーンが展開された。これは同戦史を劇化したもので1945年12月9日から1946年2月10日まで、10週間にわたって週一回放送された。それと同時に日本の放送ネットワークに同番組の質問番組を設けた。ここまでがCI&Eがつくりあげたプログラムの第一段階である。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの第二段階
1946年初頭から開始された第二段階はプログラムが更新され、《民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできるような将来の日本への希望に力点を置く方法が採用された(P275)》という。その活動の概要は以下の通りである。
江藤淳は1947年7月7日に開催された、日本新聞協会年次総会における主賓のD.Cインボデン少佐(CI&E新聞課長)の次のような発言を引用している。
この発言はアメリカ合衆国と日本帝国における新聞(ジャーナリズム)のあり方に係る認識の差からくるものだと思われる。前者においては、ジャーナリズムにおける「不偏不党」という認識がない。客観的事実、あったこと、起こったことを報道するのはNEWS、つまり情報であって、新聞がそこに立脚するかぎり、権力をチエックすることができない。政府が公表することを伝えるだけならば、政府広報の位置にとどまってしまう。だから、インボデン少佐の日本の新聞に対する批判は正論である。ただし、対外戦争という異常事態における報道の自由がどこまで許容されるかについては議論が必要だということ。米国では先述(同書第一部第3章で江藤みずからが検証を行っている)したように、第一次世界大戦を契機として、その議論が深まっていたのだが、日本帝国においてはまったく議論される気配すらなかった。日本帝国においてはつねに「ジャーナリズム」は権力と一体的であり、権力の広報・宣伝・洗脳・煽動の役割を果たしてきた。たとえば、大戦の契機となった1931年の満州事変における軍部の独走について、新聞が国民に対して議論を呼びかけた形跡が認められない。もちろん、1941年の真珠湾攻撃もしかりである。
極東国際軍事裁判とウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
極東国際軍事裁判最終論告と最終弁論を目前に控えた1948年2月6日、戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画は第三段階を迎えた、と江藤淳は言う。占領軍にとって緊迫した情勢を反映しての実施である。GHQはそのプログラムを開始するに当たって次のような現状分析を行っていた。江藤が引用したG-2の資料である。
この分析内容は、米国(GHQ)が1948年の日本の情況をこのように認識していたのかーーという観点からして、たいへん興味深い。まず、米国による無差別核攻撃を非人道的だと批判する勢力が米国内に存在していたということ。これは驚きである。核攻撃批判が米国内から世界に広がれば、戦勝国=反ファシズム・民主主義のリーダーという米国の立場は一気に崩壊する可能性があった。そのような動きを回避するため、米国内において核攻撃を正当化するための世論操作があったものと想像できる。二点目は、日本国内に日本の侵略と超国家主義を正当化する勢力が敗戦直後においても内在していたということ。結果的には、なんとも皮肉なことに冷戦開始と同時に、その勢力は反共産主義の下、米国によって公職に復帰した。三点目は、無差別核攻撃と日本帝国軍の残虐行為を等価にしようとする米国の意図である。どちらも正当化できない戦争犯罪であることは論を待たない。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム第三段階
第三段階の同プログラムは米国による日本人洗脳の集大成というべき強力な内容である。かなりの分量になるが以下掲載する。
極東国際軍事裁判
同裁判は、1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた。ポツダム宣言第10項を法的根拠とし、連合国軍占領下の日本にて連合国が戦争犯罪人として指定した大日本帝国の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判である。11カ国(インド、オランダ、カナダ、イギリス、米国、オーストラリア、中国、ソ連、フランス、ニュージーランド、フィリピン)が裁判所に裁判官と検察官を提供した。弁護側は日米弁護士で構成された。極東国際軍事裁判に起訴された被告は合計28名であった。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム第三段階はGHQが同裁判の進行を見据えつつ実施された。なかんずく、東條元首相の「東條口述書」の提出(2/18/1947)により彼が証言台に上ったとき(12/26/1947)、そして、キーナン首席検事の反対尋問とウエップ裁判長の尋問が終了(1/7/1948)したときーーを基点として、日本人の意識に変化が生じたことをGHQは察知し、日本人の戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画のさらなる強化が図られた、と江藤淳はとらえている。東條元首相の口述書の論旨はその末尾から読み取れる。便宜上、筆者がその論点ごとに番号を付した。
(一)日本帝国の方針は侵略・搾取ではなかった。
(二)適法に選ばれた内閣は憲法および法律に定められた手続きに従い事を処理していた。
(三)戦争をえらばざるを得なかった、つまり、自衛のための戦争だった。
(四)戦争が国際法上より見て正しいか否かの問題(その1)と、敗戦の責任いかんとの問題(その2)を明確に分けなければならない。
(その1)
まずは外国との問題、すなわち法律的性格である。
日本帝国の戦争は自衛戦であり国際法には違反しない。
勝者(連合国)から国際犯罪として訴追され、また、敗戦国(日本帝国)の適法な官吏が個人的に国際法上の犯人また条約の違反者として糾弾されるとは考えられない。
(その2)
敗戦の責任については当時の総理大臣である私(東條)の責任であり、その責任を衷心より受諾する。
東條はキーナン首席検事との応酬においても、口述書の主張を翻さなかった。江藤淳はその一例として、東條が戦争勃発前に御前会議で決定した日米交渉日本側最終案(乙案)を米国が受け入れていたなら開戦はなかったとの主張を繰り返したという。では乙案とはなんなのか。
以下、キーナンと東條のやりとりをみてみる。
東條口述書の矛盾
先述した通り、日本帝国はポツダム宣言を無条件で受諾した。同裁判の根拠は、同宣言の以下の文言にある。再掲すればーー
同宣言を受諾した以上、東條は罪状を認めていたことになる。犯罪者が裁判前に自白したようなものだ。もちろん、裁判で自白を否定することはできるが。
さて、筆者の驚きは、この大戦を引き起こしたのが米国側だ、という東條の主張である。そのうえで、対米交渉の乙案を持ち出したことが意外である。東條が譲歩したという乙案は、日本帝国の中国侵略、仏印(フランス領インドシナ)進駐を既成事実として米国は黙認せよと、迫るものである。日本帝国が仏印に軍を進め駐留した背景は、ナチスドイツによるフランス占領があった。ナチスドイツと日本帝国は同盟関係にあったから、フランスの東南アジアにおける権益を日本帝国が独占することを意味する。ナチスドイツの勢力を東南アジアにおいて認めるということは、「反ファシズム」を掲げる勢力としては容認しがたいことにちがいない。米国が東條に譲歩するということは、ナチスドイツにたいして、アジアにおいて譲歩することを意味する。米国が譲歩するわけがない。そこで「ハル・ノート」である。
日本帝国軍、仏印進駐の経緯
日本帝国による仏印進駐の第1回目は1940年5月、ナチスドイツによる侵攻によりフランスが劣勢になった時点で事実上開始され、同年9月にフランスにより条件付きで了承された。同年、日本帝国は、フランス、イギリスと戦争しているナチスドイツ・イタリアと三国同盟を締結し、英米仏と対立姿勢を明確化させた。これに反発したのが米国である。同年10月12日、三国条約に対する対抗措置を執ると表明、対日経済制裁を強めると同時に、イギリス領ビルマのビルマ公路などを利用すること(援蔣ルート)で、日本と戦争中の中国(蔣介石)への援助を続けた。日本帝国の陸海軍首脳からは資源獲得のために南部仏印への進駐が主張されるようになった。同地域がタイ、イギリス領植民地、そしてオランダ領東インドに軍事的圧力をかけられる要地であり、またさらなる援蔣ルートの遮断も行えると考えられたからである。1941年7月2日の御前会議において、日本帝国は仏印南部への進駐が正式に裁可され、日本帝国軍は7月28日に仏印南部への進駐を開始した。
一方で英米は、日本帝国が南部仏印進駐を行った場合には、共同して対日経済制裁を行うことで合意していた。南部仏印進駐後の米国の態度は極めて強硬なものとなった。8月1日、米国は「全侵略国に対する」石油禁輸を発表したが、その対象に日本帝国も含まれていた。またイギリスも追随して経済制裁を発動した。これらの対応は日本陸海軍にとって予想外であった。当時の石油備蓄は1年半分しか存在せず、海軍内では石油欠乏状態の中で米国から戦争を仕掛けられることを怖れる意見が高まり、海軍首脳は早期開戦論を主張するようになった。この間の日本帝国内の動向については『大元帥 昭和天皇(山田朗著)』に詳述されているので参照されたい。
米国は日本帝国に対し、以前提示していた仏印中立化案についての回答を求めたが、日本は南部仏印進駐が平和的自衛的措置であるとして、支那事変終了後に撤退するという回答を行った。米国ハル国務長官はこの回答が申し入れに対する回答になっていないと拒絶し、日本帝国が武力行使をやめることによって初めて日米交渉が継続できると伝えた。そして、前出の「ハル・ノート」が1941年11月26日、米国側から日本帝国に手交された。日本帝国側は日米の諒解案の一つ「乙案」を米国側に提案することになったが、米・英・蘭・豪は乙案を退けた。このころ日本帝国は戦争を決断していたと言われている。そしてついに、1941年12月8日、日本帝国は英米に対して宣戦布告をした。
東條英機とは何者か
この裁判の被告、東條英機(1884 - 1948)の略歴をみてみる。東條は陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、陸軍歩兵大尉、近衛歩兵第3連隊中隊長、陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官等を歴任後、陸軍大学校の教官に就任。 その後、参謀本部員、陸軍歩兵学校研究部員(いずれも陸大教官との兼任)。 1924年に陸軍歩兵中佐、 1926年に陸軍大学校の兵学教官に就任、 1928年には陸軍省整備局動員課長に就任、同年陸軍歩兵大佐に昇進。1931年には参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長)に就任。その間、1927年から1929年にかけて存在した木曜会という、大日本帝国陸軍の若手の中央幕僚による会合に参加。同会は少壮の陸軍幕僚が内々に集まり、陸軍の装備や国防の指針など軍事にかかわるさまざまな問題を研究し、議論・検討することを目的とした少人数の集団である。石原莞爾、鈴木貞一、根本博、永田鉄山、岡村寧次らも参加していた。
その後、永田や小畑が海外から帰国したことを機に、1927年には二葉会を結成し、1929年には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎や石原莞爾らとともに会の中心人物となり、陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。1933年に陸軍少将に昇進、同年兵器本廠附軍事調査委員長、陸軍省軍事調査部長に就く。1934年には歩兵第24旅団長に就任。
1935年には大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。1936年の「二・二六事件」においては、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があったといわれ、同年12月1日に陸軍中将に昇進。1937年、板垣の後任の関東軍参謀長に就任。日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾(チャハル)派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加。1938年、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。1940年から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣(対満事務局総裁も兼任)。1941年10月18日、首相就任。1945年12月、日本帝国は英米に宣戦布告。しかし、大戦勃発直後の戦況優位から、日本帝国軍は連合軍に追い詰められ、東條は、1944年7月18日に総辞職、予備役となった。後任には、朝鮮総督の陸軍軍人である小磯國昭首相が就任し、小磯内閣が成立。
日本帝国無条件降伏直後の1945年9月11日、東條は自らの逮捕に際して胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗する。このような事態を予測していたGHQは救急車などを配備し、世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいて、連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行うなどしたため、奇跡的に九死に一生を得る。1948年12月23日、巣鴨拘置所内で死刑執行。64歳没。
かつての陸軍大臣東條英機は1941年1月8日、「生きて虜囚の辱を受けず」と示達した訓令(陸訓一号)を発し、鬼畜米英、天皇陛下万歳と国民を無謀な死に追いやった張本人なのである。東條の発した戦陣訓が大戦中、軍人・民間人による玉砕や自決の原因となった。その東條が敗戦後生き延びて、連合軍によって裁判にかけられ、この戦争は米国に非があると申し開きをする姿はなんとも奇異に感ずる。しかもその申し開きの内容は、時の世界情勢とはなはだしくかけ離れた、著しく主観的かつ願望を交えた予測によって構成された認識であった。
米国(GHQ)は判決よりも、この裁判を日本人及び世界がどう見るかに関心を寄せていた。日本国内には敗戦を素直に受けとめられない者が多数派であった。判決次第では反米闘争が起きないとは言い切れない状況にあった。日本帝国によるマインドコントロールを受けた日本国民に対して、〈戦勝国の米国は善〉〈敗戦を招いた日本帝国の軍国ファシストは悪〉という、新たなマインドコントロールを日本人にかける必要がどうしてもあった。それが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」だった。
GHQの洗脳は功を奏したのか
連合軍による日本占領は、日本帝国降伏(1945年8月15日)から2週間後の8月28日からサンフランシスコ平和条約締結(1951年9月8日)までの約7年間にわたった。その間、日本人による占領軍に対する大規模な武装闘争、テロ等の抵抗運動については管見の限りだが、確認できていない。戦勝国米国が恐れた占領下の混乱はおおむねなかったようだ。ただし、それが「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の効果だとも確言できない。効果のあるなしを客観的に検証するすべがない。
さて、日本帝国国民は真珠湾攻撃時、「この一戦/何が何でも/やりぬくぞ/見たか戦果/知ったか底力/進め一億/火の玉だ/屠れ米英/われらの敵だ/戦ひ抜かう/大東亜戦/この感激を/増産へ」と絶叫していた。また、戦局悪化に際しては「突け/米英の心臓を/今に見ろ/敵の本土は焼け野原/撃滅へ/一億怒濤の体当たり」といった、さらに勇ましいスローガンを唱和していた。
(六)わが民族永遠の保持のため、世界平和恒久平和の人柱
川村湊は『戦争の谺 軍国・皇国・神国のゆくえ』(以下「前掲書」)という著作の中で、太宰治の「トカトントン」、坂口安吾の「堕落」といった敗戦直後の文学作品に描かれた日本人の虚無感、ニヒリズム的心象を取り上げ、日本人の戦後精神のありようを具体的に示した。
被爆地「ヒロシマ」における検閲
GHQが被爆地「ヒロシマ」で最初に行ったのは、被害者救済ではなく、調査だった。そして、ABCCを設立して放射能被害の膨大な資料を収集して回った。日本帝国がポツダム宣言を発出してすぐに受諾していたなら、原爆投下は避けられたのではないかという議論が戦後交わされているが、米国の原爆投下=核攻撃は日本帝国が同宣言を無視するという前提で計画されていたようにも思われる。戦争(軍事)が人類の技術革新を促進するとはよく言われることだが、日本帝国がその実験台になってしまった感がある。河村湊は次のように書いている。
川村湊の見識がすぐれているのは、GHQ(米国)の原爆検閲の意図を見事に言い当てているところにある。そのことは先に引用に続いて、次のような結びからもわかる。
川村はGHQによる〈検閲〉を指摘しているが、〈ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム〉には触れていない。また、前出の『閉されたた言語空間(江藤淳著)』に記されたPPB・CCD部隊の地域的展開(日本及び南朝鮮民間検閲支隊担当地区表)を見ると、広島は福岡ほか九州各県および島根、山口等を含む第三地区内にあり、その本部は福岡市に置かれていて(同書P227~228)、CCD・PPDが広島を特別地区としていたかどうかは、GHQの事務的記録からは判定できない。
人類史上初の核攻撃を受けた「ヒロシマ」の市民の受け止めはどうだったのか。広島市民は原爆を投下した米国に怨念、復讐、報復の念を抱かなかったのか。抱かなかったからと言って広島市民を貶める気はないし、抱いたからと言って、それを野蛮さと見なして非難するつもりもない。重要なのは、運命の日、1945年8月6日を実際、どう受け止めたかにある。
ピカッと光った原子のタマ
川村は前掲書のなかの〝「トカトントン」と「ピカドン」“という章において、前出の栗原貞子(1913 - 2005)の『核・天皇・被爆者』(三一書房)を引用しつつ、被爆直後の広島における驚愕すべき事実を紹介している。
米国(軍)によるヒロシマへの核攻撃(原爆投下)は、大量殺戮であり戦争犯罪である。当時の広島市の人口35万人のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したという(「Wikipedia」より)。米国が自らの犯罪を隠蔽し合理化しようとも、日本人ならば永遠に、核攻撃(原爆投下)した米国に対する憎悪を拭い去ることはできないはずだ。しかし、川村湊の驚きのとおり、広島市民は、原子爆弾を平和を作り出した“原子のタマ”として崇めたのだ。
GHQと日本政府が合作した戦後的言説の定着
それだけではない。川村は原爆投下の翌年(1946年8月6日)に広島市で開催された原爆投下1周年の追悼式典に出席した木原七郎広島市長の挨拶を、前出の栗原貞子の著書『核・天皇・被爆者』から再引用して紹介している。
広島市長の挨拶は(筆者の想像にすぎないが)、市長自らが作文したとは思えない。日本政府のとある部署が作文し、それを米国(CCD)が事前検閲したうえで「挨拶」と化したものと思われる。敗戦からわずか1年を経ただけで、広島市長を筆頭にしておおよその日本国民は、米国主導の戦後的言説を学習し、公的な場面で発言し、そしてそれを好意的に受け止め、新たな復興の道を歩み始めたことになる。
この驚きの現象を解明するカギは、おそらく、江藤淳の言う米国による「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の効果だけではない。日本人に内在する戦争責任を回避しようとする思考回路と、そして、戦争を〈自然〉と同一視するような日本人の戦争観にあるとする解釈もある。これらが自らの戦争責任および戦勝国米国の戦争犯罪を追及する姿勢を去勢してしまったというわけだ。だが、このような解釈、すなわち、戦後的言説の定着というなかば公式的見解に納得しかねる「自分」がいるーーいや、ちがう、それ以外のなにかがあるのではないか。この問いに対する解を求めて、洗脳(その2)を立ち上げなければならない。(続く)