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西欧に住むならキリスト教を学んだ方がいいぞぉ

キリスト教、あぁキリスト教。

思い出すのはある朝、
日曜教会で牧師から
「目を閉じて神に祈りなさい」
と言われた日のこと。
8歳から反逆者精神丸出しであった私は牧師の指示に逆らい
ガンギマリの目で周りを見ていた。


周りの子どもが大人の言う事を聞いて、お行儀よくお目々を閉じている。これを眺めながら、私は「うへへへ!こいつら馬鹿面さらしてるの俺に見られてやんの!」と悪魔の様な笑顔を浮かべていたら、信じられない形相で牧師に睨まれた。

そんな経験を妻に話すと「あぁいかにもやりそうね。あなた。」と言われるのだが、これを日本人に話すとキョトンとされる。こういうのが文化ギャップだなぁと思う今日このごろである。

あぁ、ちなみに私が「牧師」という単語を使って違和感を感じたあなた。
ミッション系の学校に通っていたか、それとも信者ですか?

このトカゲという男は南米に関わってるわけだからカトリックの関係者だろう。
しかしカトリックとすると「神父」というべきだ。だがこの爬虫類は牧師という単語を使っている。しかし、牧師とはプロテスタントの単語であるからしてこいつはニセクリスチャンだ!と思ったなら鋭いですね。

しかし正確にはそう、本当に牧師なんです。
カトリックの祖母が居るにも関わらずキリスト教嫌いの父は私を聖公会の教会に突っ込みましてね。私がキリスト教を学んだのはプロテスタントの教会だったんですよ。


プロテスタントのミサといえばこういう質素な部屋で学ぶイメージ

ところで私はそんなに真面目な人間ではないのですが、ある日カトリックにも触れないとダメだなと思ってカトリックのミサに参加したんですね。そしたらショックを受けました。

仰々しく感じたのです。

儀式張ってて神父が偉大そうな服を着ているのがどうにも耐えられませんでした。そこでふと思ったんです。

なんだこれは。聖書の教えだけを忠実に守るべきであって、それ以外の儀式はいわば偶像崇拝じゃないか。

びっくりしました。自分が別に大切にもしていなかったし、覚えてもいなかったプロテスタンティズムが魂の中から顔を覗かせたのです。
私はこの時幼児教育における宗教教育の恐ろしさに気が付きました。

ということはですよ?
西洋社会に留学される皆さん、やはり西洋社会の根源たるキリスト教に関して学ばれるべきだと思うのですよ。
今日はそういう話です。


西洋からキリスト教は消え去ったか?

と、講釈をしますと多くの日本人留学生からはこの様な指摘を受けるのです。

ヨーロッパ、アメリカの様な近代社会においてキリスト教はすでに形骸化しており、その影響力は少ない。
そのため教養として学ぶことは悪くないが、キリスト教を学ぶことは西洋社会を理解するために必須だという貴方の意見はいささか極論に過ぎないか。

まぁ、そう思いますよね。
私達だって朝起きて、

うーむ今日も平和だ!朝だ!太陽だ!
大日如来様ありがとう!


大日如来様…なのか?

なんて思いはしません。しかし、宗教観という名の「常識」はその宗教を信じない者、つまりよそ者からの視点でしか可視化することはできないのです。
例えば、こんな話があります。

日本、マスコットキャラクター多すぎ問題

ある日妻と電車に乗っていると吊り革広告にこんな文言が書いてありました。

冬場はお忘れ物が多くなっています。どうぞお気をつけください。
手袋達が泣いてるよ!

文字の下には目玉のついたキャラクター
「手袋ちゃん」が泣いています。

どうやら妻からすると、この広告が非常に気になるようです。
「なんで、日本人って毎回物をキャラクター化するんだろう」
私は言われてみてそうだなと思いました。

線路のスキマ妖精もいますしね

こんな疑問は異文化側の人間からでないと到底思いつきません。しかし、一度指摘されると気になってきます。確かに、ヨーロッパの広告でも忘れ物に注意と促すものはあっても、そこにお決まりのキャラクターが居るわけではない。

そして考えてみるとコレって物にも魂が宿るという神道的な宗教心から来ているのではないかと思ったのでした。そう考えると宗教は常識として社会に根づいているのだなぁと感じるわけです。

他にも文化的な違いが宗教から来ているんじゃないかと思うことはあります。
例えば、私はNetflixで海外ドラマを見漁るのがすきなのですが、何度も同じ人生を繰り返す、いわゆる「ループ物」ってドラマにあまり遭遇しません。

いや、あるにはあるのですが、多くありません。ところがどっこい日本のアニメだと1年に一回あるかないかくらいでループ物が出てきます。エヴァとかまどマギとか大人気になった作品もありますよね。

私はこれも信仰が作った常識の上で脚本が作られるからなのかと思うんですね。

そう考えるとキリスト教を真っ向から信仰する人は減っている西洋諸国でもキリスト教の影響は消えていないと思うのです。

社会は発展しているはずだ…いや、発展していなければいけない

スペイン人達と政治の話をしていた時、結構な確率で違和感を感じることがありました。それは彼らが過去と同じ轍を踏むようなことを以上に怖がっていることです。
例えば、過去の独裁政権の話をしていると「絶対に二度とこのようなことは繰り返してはいけない」というのですが、その話しぶりが若干宗教じみているのです。

暴力的な独裁政権は二度とあってはならないという理性的な反応というより、どこか信仰チックな「社会は発展し続けるはずだ。いや、そうでなくてはいけない。だから独裁政権は来ない」みたいな反応です。

そういう彼らに輪廻転生の世界観の日本人としてはこういう図を見せるのですが、なんとも嫌そうな顔をします。

これは古代ギリシャのポリュビオスが提言した政体循環論です。簡単にいうと社会制度はくるくると長い時間をかけながらループしているという考え方です。しかし、これを見せるとスペイン人は本当にアレルギー反応を示す人が多かったです。一体何でこの論理をそんなに毛嫌いするのでしょうか。

https://shikaoichurch.com/2017/08/24/the-kingdam/

そこで思い出したのが冒頭の教会での教育です。

基本的にキリスト教世界ではすべてが終末の世界に向かっていて、最期に信者は神に救われる世界観なんですよね。まぁそれが真実かどうかは知らないですが、その様に世界を捉えたらくるくると今まで起きた事象が再発するのは非常に居心地が悪いんだと思うんですよ。

なんせ、それを認識してしまえば教義が嘘ではないかと疑う事になりますからね。

そしてこのキリスト教が産んだ世界の捉え方はキリスト教と対立するような存在である共産主義にも反映されていると思います。

共産主義すらキリスト教から生まれてないか?

共産主義者の伝統的な社会の見方は上の図のようなものです。
古代から現代に至るまで人々は革命によって自由を得てきており、そして最終的には理想社会である共産主義社会を建設する…

キリスト教を人民のアヘンと言ってのけた共産主義ですが、その実キリスト教の世界観と非常に似通っているとは思いませんか?

キリスト教を否定した共産主義者達もキリスト教が作った世界観の中に暮らしていると考えれば、やはりキリスト教の世界観から西洋人は逃れることができないのではないかと思うのです。

キリスト教を学ぶと移住者は得だ

こう考えてみたら案外西欧社会にもキリスト教は今も力強く根を張っていると思いませんか?
そしてあの社会で生きていくなら建前というのはキリスト教をベースにできています。男女平等の精神も神の元の平等からアイデアが来ていると思いますし、難民を引き受けようみたいな思考も隣人愛の精神から来ている用に感じます。

そう考えると彼らの行動の真意が見えるようになるキリスト教の勉強は非常に役に立つと思うのです。

西洋人から信頼を得られる

実際に皆さんは信じないかも知れませんが、結構あの世界の保守層というのは教会に行く人がいます。(私は全く真面目ではありませんが)家族がキリスト教徒だというとホッとする人とかも居るのです。

特にご老人。人種や文化の壁以上に宗教が同じだと善悪感情が同じだと判断されて安心されるって本当だったんだなと気が付きました。

やりすぎると飲み込まれるので注意

ただし、「日本人の感性も保っていたいなら」キリスト教を学びすぎると西洋化しすぎて戻れなくなります。これは注意です。
例えばカトリックの祖母は生まれてすぐに洗礼を受けてから、強烈なカトリック教育を受けたので頭の中が完全にキリシタンです。

口を開ければ「神の愛」なので私は話が通じないとうんざりしています。妻も「南米のおばあちゃんみたい…」と言っていました。

そう、この様に宗教を学ぶのは異文化理解のためなら素晴らしいです。しかしながら、学びすぎると日本人ってこんな時どんな風に考えるだろう?という感覚すら奪われてしまいます。
私の場合は目指すところは相手に合わせて相手に刺さる表現方法を変えると言うことです。なのであまり西洋に自分の魂を引っ張られないようにしながら西洋人達と交流していこうと思っています。

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