廓庵禪師『十牛圖』 第二圖~見跡(けんせき)
廓庵禪師『十牛圖』
第二圖 見跡(けんせき)
依経解義、閲教知蹤。明衆器爲一金、體萬物爲自己。正邪不辨、眞偽奚分。未入斯門、權爲見跡。
頌曰
水邊林下跡偏多
芳草離披見也麼
縱是深山更深處
遼天鼻孔怎藏他
和 仝
枯木巖前差路多
草窠裏輥覺非麼
脚跟若也随他去
未免當頭蹉過他
和 仝
見牛人少覓牛多
山北山南見也麼
明暗一條來去路
箇中認取別無他
経(きょう)によって義(ぎ)を解(げ)し、教(おしえ)を閲(けみ)して跡(あと)を知(し)る。衆器(しゅうき)の一金(いっきん)たることを明(あき)らめ、万物(ばんぶつ)を体(たい)して自己(じこ)と為(な)す。正邪(せいじゃ)弁(べん)ぜずんば真偽(しんぎ)奚(なん)ぞ分(わか)たん。未(いま)だこの門(もん)に入(い)らざれば、權(かり)に見跡(けんせき)と為(な)す。
頌曰
水邊(すいへん)林下(りんげ) 跡(あと)ひとえに多(おお)し。芳草(ほうそう)離披(りひ)たり見(み)たるや。縱是(たとい)深山(しんざん)の更(さら)に深(ふか)き処(ところ)なるも。遼天(りょうてん)の鼻孔(びこう)怎(なん)ぞ他(かれ)を蔵(かく)さん。
和する 仝(おな)じ
枯木(かれき)巌前(がんぜん)差路(さろ)多(おお)し。草窠裏(そうかり)に輥(こん)して非(ひ)を覺ゆるや。脚跟(きゃくこん)若也(もし)他 (かれ)に随(したが)い去(ゆ)けば。未(いま)だ当頭(とうとう)に他(た)を蹉過(さか)すること免(まぬ)がれず。
和する 仝(おな)じ
牛(うし)を見(み)る人(ひと)は少(すく)なく、牛(うし)を覓(もと)むるは多(おお)し。山北(さんほく)山南(さんなん)見(み)たるや。明暗(めいあん)一条(いちじょう)來去(らいこ)の路(みち)。箇中(こちゅう)に認取(にんしゅ)せば、別に他(かれ)無(な)し。
文字を読んで真理を知り、言葉を聞いて自己の足跡を見つけた。衆生は本来仏であり、万物と自己と一体であると説いてあることは、さまざまな形をした器も、もとはみな同じ金属という物質であったように、万物の基は自己にほかならない。正か邪かを弁別が出来なければ、真偽を見極める眼を持たなければ、真偽を見分けることは出来ない。そして真実も見分けることができない。ここが明確でなければ、まだ『自分』の門の中に入れたわけではなく、あくまでも『自分』の足跡を見つけたに過ぎず、やはり足跡を見つけた程度でしかない。
頌
水辺や林の中には多種の足跡が有って迷うばかりだ。広大な草村に逃げ込んだ牛を、果たして見つけることが出来るであろうか喩え仏性が深山のその又奥に在ったとしても。露堂々である自分自身は何処にも蔵すことは出来ない。
和する 第一に仝じ
枯木や巌の前には迷路が多く、草叢に足をとられてしまって間違いに気が付いたかもしれない。その足がもしも牛の跡だけ追って行くのならば牛と出逢っているのに」、それに気が付かないでやり過ごしてしまう。
和する 第一に仝じ
牛を見つけた人はいない。ほとんどは探してばかりいる。山の北と南をみているだろうか。朝に夕にと、同じ路を何度も歩いているのに、そこに気が付けば他にも何もないだろうに。
先人や書物が導いてくれていることを知って、本当の『自分に出会う手がかりをみつけた』だけ。道の途上にある事柄を発見しただけでも、その道とはすでにあるものではなく、主体的な自分だけの道が様々な事柄の基礎となっている。自分という主体性がないと他者の楽しみとなってしまう。『他者に頼らず、自己と真理を拠りどころとして生きる。』ためには、因果関係をあらゆる角度から観察・分析・解析することで自分の内の真理が育っていく。
廓庵禪師『十牛圖』~本來面目
夏目漱石が27歳になって、厭世気分に陥ったことから鎌倉を訪れた。看照禅の老師へ公案の原典にまつわる答えを求めた漱石に対して『博識ゆえに学識・理論にとらわれすぎてしまう。答えが分からず、答えを懇願するが「それを教えると、その教えは私(老師)の言葉になってしまい、あなた(漱石)の心から悩んで出した考えにはならないではないか?」と老師が応じなかった。』というエピソードをApple創業者の故人へ僕は話した。
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