廓庵禪師『十牛圖』 第九圖~返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
廓庵禪師『十牛圖』
第九圖 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
本來清淨、不受一塵。
觀有相之榮枯、處無爲之凝寂。
不同幻化、豈仮修持。
水緑山青、坐觀成敗。
頌曰
返本還源已費功
争如直下若盲聾
庵中不見庵前物
水自茫茫花自紅
和 仝
靈機不堕有無功
見色聞聲豈用聾
昨夜金鳥飛入海
曉天依旧一輪紅
和 仝
用盡機關費盡功
惺惺底事不如聾
草鞋根斷來時路
百鳥不啼花亂紅
本来(ほんらい)清浄(しょうじょう)にして、一塵(いちじん)を受(う)けず。有相(うそう)の栄枯(えいこ)を観(かん)じて、無為(むい)の凝寂(ぎょうじゃく)に処(しょ)す。幻化(げんげ)に同(おな)じからず、豈(あ)に修持(しゅじ)を仮(か)らんや。水緑(すいりょく)に山 (やま)は青(おあ)うして、坐(いなが)らに成敗(せいばい)を観(み)る。
頌(しょう)曰(いわ)く
本(もと)に返(かえ)り、源(みなもと)に還(かえ)って已(すで)に功(こう)を費(ついや)す。争(いか)でか如(し) かん、直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには。庵中(あんちゅう)には庵前(あんぜん)の物(もの)を見(み)ず。水(みず)は自(おのずか)ら茫茫(ぼうぼう)、花(はな)は自(おのずか)ら紅(くれない)。
和する 仝じ
霊機(れいき)有無(うむ)の功(こう)に堕(だ)せざれば。見色(けんじき)聞声(もんしょう)、豈(あ)に聾(ろう)を用(もち)いんや。昨夜(さくや)、金鳥(こんちょう)飛(と)んで海(うみ)に入(い)り。暁天(ぎょうてん)、旧(もと)に依(よ)って一輪(いちりん)紅(くれない)なり。
和する 仝じ
機関(きかん)を用(もち)い尽(つく)くし、功(こう)を費(ついや)し盡(つく)す。惺惺(せいせい)底事(ていじ)ぞ、聾(ろう)に如(しか) ず。草鞋(そうかい)根断(こんだん)す来時(らいじ)の路(みち)。百鳥(ひゃくちょう)も啼(なか)ず花(はな)乱(みだれ)て紅(くれない)なり。
元々、清らかで穢れなどなかった。
世の中を見ていると栄えることも衰退することも理に適っている。
飾る必要も取り繕う必要もない。
流れる水は清らかで、眺める山は緑が美しいように。
たたえる
初めから仏性であったと訣著したら、已に仏性を自由に遣っていたことを知る。ではどうすれば良いのか、直ちに盲聾の如く見聞覚知を忘れなさい。庵の中に居たら外の様子は分からぬ。大海は自ずから果てしなく、花は自ずから紅であり何の分別も無い。
和する 第一に同じ
不思議な自然の働きは、有為や無為の努力の次元にはまらないため、物を見たり、声を聞いたりするのに、わざわざ聴こえなくなることはない。昨夜、西の海中に沈んだ太陽は、今朝も変わらずに暁の空に日輪の輝きを見せてくれている。
さらに和する 第一に同じ
カラクリを使って、全力を尽くしても「耳が良いとはどんなことか?」と聾者が笑う。草鞋をとことん踏み破って、ここに来るまでの片道だったが、百鳥も啼かない山の中では、紅い花が乱れ咲いている。
『自分を探し』『自分を得て』『自分が消えて』『自分に戻るまで』とても歩いてきた。眼が見えることで色に騙されることはない。耳が聴こえることで音に惑わされることもない。外の世界に心がとらわれることも多いが、家の中にいると外のことはわからない。
廓庵禪師『十牛圖』~胸懐
「絵はつまりたるがわろし。」と狩野派の絵師狩野守信(探幽)は後水尾帝の問いに答えたことを喩えにして、高い教養人も、崇高な組織も、良いとされる製品も、芸術性が高いものも、必ず『余白』というものが存在し、合理性や効率性を重要視する市場経済に相反する「無駄の大切さ」をApple創業者の故人に僕は伝えた。
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