”農”に坐すvol.3━日本人はおかずばかりで主食が無い
禅修行に特化した僧院、兵庫県にある安泰寺の元住職、ネルケ無方禅師について綴っています。
安泰寺とネルケ無方師についてはこちら。
「おかずばかりで主食がない」
一体これまたどういう禅問答でしょうか?
はるばるドイツから禅修行のために日本を訪れたネルケさん。禅に触れるきっかけとなったのは高校時代の恩師が開いていた禅サークルだったそうですが、それが昂じて本格的な禅の道を求めるようになります。
「禅の本場は何と言っても日本!日本に行けば本物の禅が分かるはず。」
期待に胸を膨らませて来日したネルケさん。ですが、実際の日本を知ってがっかりしてしまいます。
「禅?なんでそんな古めかしいものに興味があるの?」「ドイツ人なのに、変わっているね。」
日本では禅が盛んで、日本人ならみんな禅のことを知っていると思っていたら、そうではありませんでした。禅に興味があると言っても変わり者扱いされるばかりで、なかなか坐禅を組むことができる場所も見つかりませんでした。
「坐禅というのは立派なお坊さんの修行であって、あなたのようなどこの馬の骨とも分からないようなものにやらせる訳にはいかない。」などと、文字通りの門前払いに合うこともしばしば。夢を描いて来日したネルケ氏ですが、始めは日本に対して抱いていた幻想と現実とのギャップに苦しんだようです。
”情けない”──ネルケ師による痛烈批判
「禅はこんなに素晴らしい、良いものなのに誰もそれを実践していない。お坊さんですら、仏法を説こうとしていない。」
縁あって安泰寺に入り、そこで得度して仏門に入ってからも、日本の仏教のあり方に対して強い違和感があったというネルケ氏。
「こうして仏門に入ると色々な場所で日本人の仏教離れを嘆く声を耳にします。『近頃の人は信心が薄くなってしまった。』と言っている訳ですが、よくよく聞いているとそれが単にお布施を納める檀家さんが減っていることを嘆いているだけなんだと分かります。なんとも情けないことです。結局は自分たちが仏法を説かないから、禅を伝えないから。仏教はこんなにも良いものなのに…」
日本の仏教界の有り様を”情けない”と痛烈に批判していますが、それは師が日本に対して抱いていた強い憧れの裏返しなのでしょう。純粋に禅道を求めてはるばるドイツからやって来たからこそ、失望も大きかった訳ですが、これだけ大ぴらに仏教批判ができるのもネルケ無方師ならではかも知れません。
正面切って批判することを恐れないのはドイツ人の気質によるものでしょうか。お坊さんにとってはなかなか耳の痛い言葉でしょうが、誰もが思う当たり前のことでもあって、歯に衣着せぬ物言いはむしろ爽快ですらあります。
主食のススメ
”日本人はおかずばかりで主食が無い”というのもつまりは日本人の宗教観に対する批判です。
毎年のように初詣にお参りして、クリスマスを祝って、結婚式を教会で行い、ヨガだ気功だ瞑想だとプラクティスを楽しんで、お葬式にはお坊さんを呼んでお経を上げる。
何でも楽しむことができて大いに結構かも知れませんが、それで結局あなたは何なのか?というところが良く分からないままになっている。
おかずばっかり色々取り揃えられて何でも食べることができるけれども、何を主食として生きていくのかが定まっていないのが日本人です。
おかずばかり食べていてあなたの身体は健全に作られていくのでしょうか?
仏教、仏法、禅道とは、つまり健全な生き方を作っていくための主食になり得るものです。しかし皆さんそれを活用しようとしていない。もったいないことです。
──おかずばかりの日本人、とはそういう意味の言葉でした。
日本人である私がこんなことを述べたとしてもなんだか批判がましいだけですが、ネルケ師が言うから面白いのだと思います。
日本で育まれた禅道に心底惚れ込んで来日してから30年余り、生きることの意味を見失い半ば自暴自棄になっていた危うげなドイツ人青年の姿はすでにありません。禅は確かにネルケさんの健全な精神を育む主食になり得たようです。
主食とするのは仏教でなければならないというお話ではなくて、極論で言えば別に何でも良いのだと個人的には思います。多様な宗教観が混在している日本のあり方も悪いばかりでは無いはずです。
おかずばっかりつまみ食いするようなことではいけない、ということでしょうか。
健全な心を作る”主食”としての禅のススメ。いかがでしょうか?
次回で最終回。最後にネルケ禅師がいかにして生きることの意味を見出したのか。「”身体”としての自分」というテーマで綴ってみます。