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伝説の里〜寺社を訪ねて〜(宗圓寺/船路八幡宮/正慶院)

◇宗圓寺 「重源上人と河野様の言い伝え」

■重源上人作と伝えられる仏様
僧取淵の雨乞い行事に、徳祥寺と共にお勤めをされた宗圓寺には、重源上人作と伝えられる観世音菩薩と せいし 勢至菩薩の秘仏2体が残っています。明治の廃仏毀釈の動きの際に地域の人が救った仏像です。他にも焼け焦げた仏像も残っています。

■ 船東の 河野様
宗圓寺から山の方へ行くと船路東になります。源平の頃、平家の伊予水軍河野氏という侍が落ち延びてきて暮らしていました。しかし、居場所を見つけられ戦いになりましたが、はぜ掛けの木に袖を引っかけてしまったところを切り殺されてしまいました。それから、この地区でははぜ掛けの木を使わなくなったとか。彼の いはい 位牌が宗圓寺に祀られ、船東地区には関連のお墓もあり、毎年8月末頃にはお祀り行事があるそうです。(参照「徳地の昔ばなし」)

■昔の佐波川の流れ
これもよく聞く話ですが、佐波川の流れは今とはずいぶん変わっていると。防府の右田あたりは海岸で、鯖がたくさん捕れていたと言います。佐波川や小鯖、鯖河内などの地名が残っているのもうなずけます。宗圓寺あたりの地名もこうふち河淵といい、すぐ近くまで佐波川が流れていたのでしょうか。
(取材:池田特派員)

(出典:山口市地域版広報紙ふるさととくぢ2019年7月号「寺社を訪ねて」)


◇船路八幡宮 「(主祭神)道反大神」


■今年は10月6日、秋の大祭
今も大神輿3台と女神輿1台が境内を練り歩く船路八幡宮は、つとに有名になりました。近隣だけでなく、知人・友人が協力して担ぐ男の大神輿。当初は子供神輿だったのが、今は近くの森脇商店さんなどの声掛けで集まった女性が担ぐ女神輿。農村舞台の余興と相まって、近頃、とても珍しいお宮の祭りです。

■3つの力石
秋の大祭で、数年前から大神輿1台が訪れる千引岩とお伊勢さんがあります。お宮から国道を挟んで反対側までですから、大変です。そのお伊勢さんの祠の前に2つの丸い石があります。実は、この丸い石は力石と言って、もとは3つあったそうで、今は船路八幡宮の境内に1つ鎮座しています。果たして、どうやって移動したのやら・・。
他にも齋藤宮司から、秋葉様や幸神様など司る神々について、お話をして頂きました。ご興味のある方は、5のつく日にはお勤めをされているそうです。船路八幡宮に齋藤宮司を訪ねられたらいかがですか?

(取材:徳地づくり達人塾、池田特派員)

(出典:山口市地域版広報紙ふるさととくぢ2019年8月号「寺社を訪ねて」)


◇正慶院「徳地の奇兵隊本陣」


■歴史の偶然がもたらした奇跡
1864年(元治元年)、幕府の圧力に揺れる長州藩は、むくなしとうた椋梨藤太など俗論派政権が発出した諸隊解散命令を出します。その前日、10月20日に徳地小古祖に転陣していた奇兵隊は、これを無視し、約半月の間、正慶院を中心に徳地の各地で、200~300人といわれる隊士の訓練をしました。

■維新成功のカギを握る徳地転陣
新式銃のミニエー銃や正慶院の近くにある麓の河原での散兵式戦術の訓練。この年の暮れ、下関功山寺で起こした高杉晋作の決起に続いて翌年明けに開戦した大田・絵堂の戦いで、萩本藩俗論派の大部隊を少数の奇兵隊が破ったのは、この訓練の成果に他なりません。

■高杉晋作に同調しなかった山県有朋
10月27日、萩からの追手を避けて正慶院を訪ねた高杉の誘いを、時期尚早と断った山県。ドラマですね~。
後の下関決起まで野村望東尼に匿われた高杉が、正慶院を立つ夜、残した句「灯火の影ほそく見る今宵かな」は、彼の心細さが滲み出ているような気がします。
(取材:池田特派員)

(出典:山口市地域版広報紙ふるさととくぢ2019年9月号「寺社を訪ねて」)


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目次と人物紹介


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