「未来」の背中
最近、思ったことをカジュアルに言葉にしてから「失敗したかも」と後悔することが増えました。
例えば「男の人はこういう考えの人が多いから…」と性別で何かを言い表したり「あの人可愛いよね、細いし…」と、見た目で何かを判断したり。言葉にしたあとで、“男性=こう言う考え方”とか“華奢=美人”とか、簡単に言っちゃうのは良くないな、と、思い直すんですね。
そのような場面に出くわすたび、しみじみと、刷り込まれたものを更新する難しさを痛感します。
過去の価値観から脱していこうと世の中はアップデートされているし、古い価値観を肯定する人がいれば、私もなるべく疑問を投げかけるようにしています。ただ、そのように人に指摘する時、心のどっかで「いや、まあ、わかるんだけどさあ」とも思っているんですよね。
古い価値観を引きずる人が「ダサい」「時代遅れ」などと批判されているのを見聞きするたび「そうだそうだ!」と思いつつ、ギクリとしているのも否めません。もちろん、擁護する気はないですが…。
そんな感じで、価値観の差に怒ったり悲観したり、強烈に反省したりしているんですが、最近、小中学生くらいの人と話す機会がちょこちょこあり、意外と未来は明るいかも?!と思うようになりました。
当たり前ですが、いま大人が言う“アップデートされてきた価値観”が、彼らにとっては“価値観”のスタート地点なんですよね。
思い込みや偏見にがんじがらめにされてもおらず、まだ解放的、まっさら、容量の残りが充分にある。すごい。将来有望とはまさにこの事。
…とはいえ日本では、古い価値観のおじさんが重要ポストを占めているし、政治の在り方も危ういのが現実。
楽観的に「いやあ、若い人に任せれば安心だよあはは」ってわけには行きませんが、なるべく自分は、子ども世代の人たちにとって、希望を持てる背中でありたいと思います。
憧れられるような立派さはなくても、せめて「世界は生きるに足る場所だ」と思ってもらえるように!
「わかってる」「わかってない」と批判や分断するのではなくて、今ここを生きているみんなで、畑を耕していけたらいいね。