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世間と人とを隔てるものは(映画「不安の正体」の話)

先日。再び東京ドキュメンタリー映画祭へ…。
精神障害者の方のグループホームと、その建設を巡る反対運動との関わりを記録した映画「不安の正体・精神障害者グループホームと地域」を鑑賞。

当事者の方、ホームのスタッフ、建設に反対する地域住民の方の声に加え、弁護士や、ホームの運営会社、精神科の医師、さらには地域の不動産屋にまで取材をされており、とても丁寧にホームの運営と建設をめぐる状況が綴られていました。

タイトルでもある「不安の正体」はきっと理解不足からくるものなんですよね。だから、無理解から来る不安はわからないでもない。
ただ、率直に言って腹が立ったのは、ホームに反対する人たちが(少なくとも作品に出てきた中では)情報を開示せよ、説明せよ、と一方的に言うばかりだった事です。
精神障害者が危険だという前提で「危険じゃないという説明をせよ」と言ったって、そもそもの前提が間違った偏見でしかないのだから、まったくフェアじゃありません。

また、地域の方向けの説明会のシーンで出てきた「この地域で暮らし、子どもを育てようとしているのに(障害者のグループホームという危険な場所があるのは)不安」という声にもぽかんとしてしまいました。
この人は、これから生まれる子供にもし障害があったらどう思うんだろう。

私の知り合いでも障害のある人はたくさんいますが「変に思われない様に」「迷惑をかけない様に」ととても気を遣っている人が多くて、どうにもやるせ無い気持ちになります。
多少迷惑をかけあってでも「お互い様だわ」って思って暮らせたら良いのにね。マジョリティでないというだけで小さくならないといけないなんて事、本当はないのにね。

様々な立場での偏見と困りごとが可視化されている、真摯な作品でした。こういった話題に興味が“ない”人にこそ見て欲しいです。

同時上映されていたのは、鳥取県の山奥に1人で暮らす92歳の方を取材した「私はおぼえている・竹部輝夫さんと中津の記憶」。
大変な山道を走り竹部さん家へ向かう映像と、話をするご本人の映像、過去の写真等だけで作られたモノローグ。
こちらもまた、生きる場所や土地と個人の人生について考えさせられる作品でした。

どの場所でどの様に生きるのかって,本当は本人が決めていいんですよね。人生だし。
けれども、92歳で山の中で1人で暮らすおじいさんや、生活の場に困難を抱える方の状況をこうして見ると、あっさり「自由に暮らして良いんだよ!」とは言えない自分を感じました。
「自由って言ったって、こうした方がいいでしょ」という常識スイッチが、自分の中にある事を無視できないと言うか…。しかしこの“常識スイッチ”こそ、恐らく、他者を縛る偏見なのです。
これと向き合い、どの様に世界に相対するのか?と考えるのは自分にとってすごく大切な気がしています。

自分と違う人に不安が募るのはある程度は仕方がない。でも、障害とか国籍とかじゃなくても、どんな人だって自分とは違うんだもの。歩み寄って、知って、ハードルを見極め、向き合うしかない。ハードルは意外と低いかもしれないし、無いかもしれないし!

どんな人がいても暮らしやすい社会は、どんな自分でも暮らし続けやすい社会なはず。変な人、変なことが一切ない社会の方がよっぽど現実離れしていて怖いと私は思います。

こういう催しって意外と行きそびれたりするので、ちょっと足を伸ばして見に来て良かったです。東京ドキュメンタリー映画祭の皆様、機会をありがとうございました。


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