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AI時代の写真的メモ
写真をやっているとその本質上どうしてもリアリズムに寄ってしまうので、シンボリズムの方に持っていきながらバランスを取る必要がある。その装置として今、機械的なアナログカメラやオールドレンズやフィルムが再び用いられるという現象があるのかもしれない。
両者のバランスが取れ始めると撮影者はロマンチシズムへと向かう。日本の私写真という特性は、どうも宮沢賢治的というか、ロマンチシズムの傾向が強い。その一本の線があり、反するように様々な写真表現が生まれてきた。
写真文脈のリアリズムという観点からは私写真よりも土門拳のリアリズム写真の方が時代的に古い。その後、森山大道、荒木経惟、中平卓馬、長島有里枝、濱田英明と継承される私写真文脈はリアリズムの反動というよりも、戦後から高度経済成長という時代背景要因の方がおそらく強い。
そこで光学的なレンズを介した写真行為はリアリズムに寄ってしまうという本質を今一度保持しつつ、AI生成による写真を考えるとやはりシンボリズム。単純に非現実主義的であり、そもそも写真なのかという話へ展開できる。だがポストモダンとも言えるし、シュールレアリスムへの回帰と絵画にも拓ける。
絵画まで拓けたら、ピクトリアリズムへと繋がる。写真は絵画の代替として始まった。AI生成を用いることによって写真は1800年代まで時代を逆行してしまう。だからこのタイミングでホンマタカシはカメラオブスキュラを用いたのではないか。あの展示はAI写真時代に対するパンクロックの演奏だったのかも。
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