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リベンジ旅行をしてみた (その1)

今回のテーマ: ゆく年くる年
by 萩原久代

2023年もあと一週。今年はコロナ前の世界に戻った感じがした。マスクをしないで外出するのがこんなに気持ちいいものかという喜びを久々に味わった。

2020年と21年は旅行をせず、22年夏にやっとフランスとスペインまで足を伸ばしたが、まだワクチン証明やマクス着用が必要という規制があった。3年間の鬱憤が溜まって、今年はリベンジ旅行の年となった。英語でもrevenge travelと言う。すでに昨年から、世界中で多くの人がリベンジ旅行に動き出していた。

そんなわけで、航空料金が高くなった。需要と供給の原理か、航空会社の陰謀か。でもリベンジしたい! それでマイレージを貯めているユナイテッド航空で、まずパリに飛ぶ。例年ならニューヨーク~パリ往復エコノミーは1,000ドルを切ることもあるが、なんと1,500ドル以上だった。次の日にアクセスすると、微妙に違った価格がでてきたが高止まりだった。最近は航空会社予約サイトのアルゴリズムのせいで、数時間ごとに価格が上下して、値段チェックをする度に神経がすり減る。

2023年リベンジ旅行は欧州にゆっくり滞在して、行ったことのない国(ルーマニアとポルトガル)に旅行することだった。ニューヨークからパリに飛んで、パリでゆっくりした後、まず1)ベルリンとルーマニアへ行った。そしてまたパリでゆっくりした後に、2)イスラエルとポルトガルに行くことにした。
初めて行ったルーマニアとポルトガルのことを少々書いてみる。

1)ルーマニア (のんびり7泊8日の旅、6月初旬)
ルーマニアの物価は安かった。スーパーで買う飲み物や果物、レストランなどのお会計はパリでの価格の4分の1、高くても半分くらいだった。

*ブカレスト (通算5泊)

ブカレスト市内の移動にはバスや地下鉄があって、往復1ドルもしない世界だ。が、ウーバーが信頼できて安く、時間の節約になるので利用すべきだと地元の友人に言われた。街の中を数キロ~10キロくらいを移動する際にウーバーを使った。すぐに到着して親切な運転手さん、英語も通じた。市内どこに行っても料金は2~5ドルくらいの範囲で済んだ。確かに安くて便利だった。

ホテルは中級ビジネスホテルといった感じのところだったが、部屋は大きくて清潔、朝食付きだった。ブッキング・ドットコムで予約した。ホテル料金は激安ではないが、一泊80ドル程度だった。

着いた翌日は、Free Walking Tourという現地ガイドが街を案内する無料ツアーに参加した。無料とは言っても案内に満足すればチップ(5~10ドル程度)を渡す。ブカレストの中心部を3時間近く歩いて、歴史の流れに沿って建造物や教会、地域の特徴などを説明をしてくれた。ブカレスト中心部は地震や大火事で崩壊したものが多く、19世紀後半から20世紀前半に建てられた建物が多い。フランス人建築家が活躍したため、街並みはパリに似ている。若い女性のガイドさんによると、ルーマニアは民主主義になったものの、今でも汚職と高い失業率などが続いているという。若者の多くがより良い職を求めてアメリカやイギリス、フランスなどに移住したいと思っているそうだ。
ブカレスト無料ウォーキングツアー:  https://bucharest.walkaboutfreetours.com/

スタヴロポレオス教会(Stavropoleos Church):1724年建造の正教派修道院。地震や火事で19世紀後期には破損が酷かったが、20世紀初期に復元修理された。

ルーマニアの北東地域にある木造の教会や修道院を見たかったが、ブカレストから遠いので今回は行くのを止めた。似たような建造物をブカレストにある国立農村博物館(Dimitrie Gusti National Village Museum)で見る事ができた。30エーカーの広い敷地に50以上のルーマニア各地の農村にあった古い家や教会、集会所などの建物がオープンエアで展示される。明治村みたいなところだ。お天気が良い日だったので4時間くらいかけて、ゆっくり歩いて楽しんだ。


国立農村博物館、北部の村にあった木造の教会

ブカレストのマーケットにも行ってみた。3階建の大きなホールに新鮮な野菜と果物の他にパン屋、肉屋、魚屋、チーズやワインの店などの他に多くの雑貨品も所狭しと並ぶ。ここでジャポネーゼ(Japoneze)というロールパンを見つけた。一緒に行ったルーマニア人によると、ロールパンの形が日本髪に似ているから付いた名前らしいという。自分が小さい時、おやつにお母さんがジャムを塗ったジャポネーゼを用意してくれたとなつかしそうに話してくれた。

午後3時を回っていたのでパン屋さんは閉店後。ひとつだけ残っていたジャポネーゼ。

*シナイア(Sinaia)

ブカレストで3泊した後、列車で北上して2時間弱、シナイアで半日を過ごた。そこから夕方にまた列車に約1時間乗って、ブラショヴ(Brasov)に行った。列車のチケットはホームページからクレジットカードで簡単に購入できた。ブカレストからシナイア、そこからブラショヴへ行き、帰りはブラショヴーブカレスト直行列車チケット、すべて指定席で合計25ドルくらいですんだ。車体は古い感じだったが、時間通り運行されて快適だった。シナイアではペレシュ城と隣接するペリショール城を見学した。

駅からペレシュ城(冒頭の写真)までの勾配のきつい坂道をウーバーで10分、4ドルくらいだった。ペレシュ城は、ルーマニアの初代皇帝カロル1世が夏の離宮として1875年から8年の歳月をかけて建てた宮殿。お城の最上階には特定の音楽家などの滞在用の部屋がいくつもあるのに驚いた。入場料は全フロアを見られる券にした。お値段は150レイ(約33ドル)、60歳以上シニア券は半額(75レイ)、学生はさらに半額(37.5レイ)になる。

ペルシュ城: 木彫装飾が主流で重厚な感じがするドイツ風のお城だ。

一方、ペリショール城は部屋数も少なくて小型だ。カロル1世の甥のフェルディナンド(王位継承)とその妻マリー(英ビクトリア女王の孫)のために建てられた狩猟用の城で、1902年に完成した。

ペリショール城: アール・ヌーヴォー調の装飾が綺麗なお城だった。

これらのお城とその敷地は、ルーマニア社会主義共和国時代には国有化されて博物館になった。同国崩壊後に国外亡命していたミハイ1世(フェルディナンドの孫)はルーマニアで市民権復活を果たし、お城と敷地は1997年に王族の所有権に戻った。王族は引き続き博物館として公開している。

お城からの帰りは、ブラブラと坂道を下って駅に向かい、途中でシナイア修道院を見て景色を楽しみ、シナイアの街を少し歩いてからブラソフ行きの列車に乗った。

シナイア修道院

* ブラショヴ(Brasov)

シナイアから1時間弱で到着し、ウーバーで予約したアパートへ行く。ブッキング・ドットコムはホテルだけでなく、個人経営のアパートもリストされていたので、キチネット付きの小さな部屋に2泊した。天井の高さが3メートル以上で、バスルームの上がロフトになっていてベットルームはそこにあり、リビングが広かった。大家さんは若い女性で、隣のアパートに住んでいた。Wi-Fiの接続ができなかったら、隣からすぐに来てくれて便利だった。一泊60ドルだった。

ブラショヴでもFree Walking Tourに参加した。トランスバニア地方の南部にあるこの街は、標高865mのトゥンパ山の麓に位置し、中世の街並みを残している。中世の教会や要塞跡などを2時間半くらい歩いて回るとほぼ街全体を見る事ができた。

ブラショヴ(Brasov)の街並み

ルーマニア料理は、肉系でソーセージや焼肉(ポーク・ビーフ)の種類が豊富でそれなりに美味しい。ボリュームたっぷりである。付け合わせのパプリカとピクルスの種類も多く、私はそちらのほうが楽しみだった。

ブラショヴで食べたソーセージとグリル肉のプラター、ビーフ切身とポレンタ添え。前菜のサラダとビール2杯を含めてお会計は170レイ(37ドル)

ブラショヴからはブラン城(ドラキュラ城)へ行くのが観光ルートなのだが、お城には見るものがあまりなさそうだったので行くのをやめた。その代わり、日帰りで美しい中世の街と言われるシギショアラ(Sighisoara)歴史地域に行った。ブラショヴから車で片道2時間くらいかかる。ツアーもあったが滞在時間は短くて1人50ドルだった。人の良さそうなウーバー運転手に相談してみたら、シギショアラまで1日貸切で60ユーロ、今日でも行けるというので午前10時半に出発!

シギショアラは城塞の街でもあり、その天守閣には中世のさまざまな職人組合(鍛冶屋、靴職人など)の名前が付いている。13世紀から15世紀にかけて建てられたロマネスク様式の数多くの教会もある。

街の中心にある「時計の塔」は14世紀に建てられ、大時計は現在も動いている。が、訪れた日には塔は改造中で塔に登れず、時計も動いていなかった。

ドラキュラの家(ブラド・ツェペシュの生家)もこの街にあり、今はレストランになっている。食事をしないと入れないのだが、ガイドに引率された観光客グループの後ろについて入ってみた。単なるレストランだった。街のあちこちの教会(聖ニコラエ教会、ドミニカン修道院など)や建物を見てまわり、遅めのランチをしてブラショヴには午後7時に戻った。

ブラショヴでは最後の日に、「共産国時代を語る博物館」(Tales of Communism Museum)を訪ねた。変哲もないオフィスビルの2階にあり、ルーマニア社会主義共和国時代にブラショヴに住んでいた人達の生活とアパートの様子を展示しており、当時の色々な職業や年齢の人達の話が、壁のA4サイズのボードにルーマニア語と英語で書かれている。1950〜1980年代のキッチン、居間、家具、商品などをみながら、普通の人の肉声を読むというシンプルなものだが、非常に面白かった。言いたいことを言えず、恐怖政治・統制経済下にありながら、ユーモアを持ち、逞しく生きる人たちがいた。
博物館サイト: https://madc.ro/en/

ブラショヴ滞在後、ブカレストに戻って2泊して、ルーマニア7泊8日間の旅は終わった。

さて、ボルトガル編と思ったが長くなったので、後日、ゆく年のリベンジ旅(その2)にします。


萩原久代
ニューヨーク市で1990年から2年間大学院に通い、1995年からマンハッタンに住む。長いサラリーマン生活を経て、調査や翻訳分野の仕事を中心にのんびりと自由業を続けている。2010年からニューヨークを本拠にしながらも、冬は暖かい香港、夏は涼しい欧州で過ごす渡り鳥の生活をしている。

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