第二話 「ブラックボックスを読んで」
たくさんの物で溢れている現代。
悩みの種は大体仕事関係、将来のこと、お金のこと、
近くにあるか遠くにあるかは別にして
今見えている"一端"に翻弄されて生きていくのは強制的に何かの力が働いて、それによってその悩み自体を強いられているようにも感じる。
朝起きてから仕事に行くまでのルーティン
仕事に行き、帰るまでのルーティン。
時間や上司の命令に拘束され、行き場のない何かを抱えながら
「何か別のところに」「より上へ」なんてずっと考えている。
自分のことを知るために始めた日記も、いつの日か事務的になり
そもそもなぜ始めたかなんて覚えてもいなくなってしまう。
ふと振り返ってみても「未来の自分の為だ」とかいって結局そこに"今の自分"の姿はない。
上へ、上へと求め続けて、一体自分は何になろうとしてるのだろうか
"その日"はいつ来るのだろうか
そもそも、上とはなんなのだろうか。
そんなことを考えて、いつ日かジレンマの中にいる自分にも嫌気がさす。
もっと他のところへ、いいところへ
自分が"その場所に"行けさえすればこのジレンマから抜け出せるんだ
いつの日か何かに満足することだけを願って
意味もなく仕事を転々としたり、
意味もなく今やってることをやめてみたり、
意味もなく新しいことを始めてみたりしていることに気づく
そんなことをしているとふと思う。
とにかく忙しく自分に悩むこと自体、
多分、ずっと続いていくのだろうなと
早く、安定した場所に身を置きたい。
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人間は何に翻弄されているのか?
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サクマが今まで悩んでいた悩みの種、衝動として心の内に突如湧き出てくる"白いモヤモヤ"の正体。
その根源は、突如としてそこに出てきたわけではない
元々そこに「自分自身が置いていて」自由に取り出し可能な
物である。
サクマは繰り返し、この世の構造について言及している。
おそらくこういう物なのだろう、とか
見える部分と見えない部分への距離感などだ(具体的な言及はしないことにする)
だが、そう言った物を感じてはいるが
自分自身をその社会構造の中に根本的に置いておらず
今いる場所がスタート地点とし
今ある物に対してなにか欠陥を指摘して、サクマが感じていた「虚像であり良くできた社会」に身を置きたいと思い続けていた事がある種「囚われ」を生んでいたのだなと感じた
○人間が作りあげてしまったのは、文明ではなく"言語"による虚像なのではないだろうか?○
試しにそこら辺にいるアリや虫たちに、「なぜ生きているのか」説いてみるといいかもしれない
当然無視されるだろうが、きっとそんなこと考えてないと返されるかもしれない
肉体に囚われ、空間的な自由を奪われている人間。
どこかにいくにもお金や体力、時間もいる。
幸せとは?自由とは?
お金持ちになること?仕事で成功すること?
それ自体に本当に"意味"はあるのだろうか
そもそも、お金持ちになる
の"なる"はどの時点のことを言っているのか
"成功"とは何を指すのか
○「社会というものに囚われている」という虚像
「社会というものに囚われている」
そういう感覚になる事は誰しもあるはずだ。
でもよく考えてもらいたい。
本当に自分は囚われているのだろうか
逃げたいと思えば逃げられるし、行きたい場所にも行けるはずだ
だがそんなことは誰だってわかっている。
ここで重要なのは言葉で語ることではなく、心でどう感じているか、そして感じていくかだ。
もちろん、サクマ自身が考えているようにそこにいくために正当なプロセスを通過する必要がある場合もある
だがそれを除けば、そこに対する意志は自分自身が本来保持しているもののはずだ。
そこまで考えて悟った。
囚われを生んでいるのは他でもない「自分自身だった」ということに。
それを思うと、感情に振り回され、ある時暴発させてしまうサクマのように誰しもが"白いモヤモヤ"を持っている気がする
ある事件を境に全てが周りから消えていく中
サクマは人間が作り上げた虚像の"意味社会"や
自分自身が起こした行動までの道筋
その発端になったもの自体がなんなのか、その根源を悟ったのだと思う。(奇しくも、自分の手で事を起こしてしまってから)
なんとなく使い方がわかる自分自身という物も、もはやブラックボックスであり、中身を全て見通す事はできない。
それ故、翻弄されるし"意味"なんて物を追い求めてしまう
サルトルは「人間は本質的に自由」とし「その個人が行う決断は社会的責任を負う」と提起している。
たしかに、サルトルの言うように個の決断は周囲に対して大小関わらず影響を与えており
それ自体が自分自身に影響を与えることもある
だが、人間の本質を自由と提起したのには大きく意味があると思っている。
いつ起こるかもわからない虚像に身を任せる必要はない。
自分を苦しめる為に、息を潜めているように感じている"なにか"を待ち構える必要もない
待ち構えること自体、いつの日か自分自身の計画になってしまい兼ねないからだ。
そこで思い返して欲しい
誰しも望むのは幸せな世界だと思う。
積み重なった何かから想起して、未来の自分にこれ以上の完成形を組み上げていく事が違うのであれば(苦しみを感じるのであれば)
今まで積み上げた物、それ自体を捨ててしまうことが本来必要な物なのではないだろうか?
美味しい物を食べた夜、明日はもっと美味しい物を食べたいと考える。
それをやめ、美味しかったご飯の味を思い出してみてはどうだろうか。
見慣れた街だと、他の場所に行きたいと考える。
それをやめ、時たま道端に咲いている花の色を観察し、その綺麗さに見惚れてみてはどうだろうか
「今」を感じ、生きていく事が本当の幸福になる。
ひとまず未来や過去に意識を向けるのをやめ、
今目の前にある美味しそうなご飯をよく噛み締めて食べる事が
自分を苦しめている虚像から抜け出す唯一の方法なのかもしれない。
少なくとも、自分はそう生き方をしていきたい。
今、目の前にある物を見つめながら。
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