自己嫌悪、それからクズとプライド。僕。

あの友人は病気をもった身体で洋服をつくった。あの知り合いは高校を卒業した後単身で福岡にとんで曲をつくった。あいつは東京で立派に働いている。あの人はモデルをしながら家庭を築いた。あの子もあんな奴も、皆戦っている。自分と。社会と。

僕はどうだろう。小学生の頃に始めたサッカーも、高校生の頃に始めたドラムも、専門学校で目指した税理士も、全部中途半端のまま、気付いたら月4万円にも満たないアルバイトでお酒を飲む毎日を続けている。snsでは、仕事の辛さや生きることへの思想、素敵な詩や自作小説、何かに挑んだ眩しい人が傷だらけの人生を発信していて、それが悲しくて悔しくて羨ましくて、気が狂いそうになる。

キラキラしている人が嫌い。怖い。夢も希望も持たないままニート、フリーター生活をしている人にばかり目がいってしまう。

「逃亡」。社会や現実から逃げている人と自分を照らし合わせて、まるで同胞にでもなったかのような勝手な安心感を頼りに生きている。

いわゆるクズだ。いつか変わらなきゃいけないと思っているのに、いつまでたっても何もできやしないクズだ。そうは思うけれども、それを認めてはいけないとも思う。それは決して自分を信じているがゆえの「認めてはいけない」とは違う。何かに挑戦しようとすらしていない人間に、自分を蔑む権利なんてない。自分を卑下していい人間は、立ち向かって、踏み出して、それでもだめだった人間だけ、戦っている人間だけだ思うから、僕は自分自身を「クズだ」なんて言ってはいけない。おこがましい。認めることはしてはいけない。侮辱に等しい行為だ。でも、そう思う事が、何よりの逃げ道になっていることにも気付いている。

そんな事ばかり考えているから、立派に働いている同級生、後輩、先輩と会うことが怖い。両足でしっかり踏んばって戦っている人が怖い。人としてのプライドはどこかに落っことしてしまったから、馬鹿にされるのは慣れているけど、悲しくなってしまう。おいて行かないでほしいと思ってしまう。もしかするとそれをプライドとよぶのかもしれない。孤独が怖いのかもしれない。プライドと孤独の境界線ってどこだろう。

頑張ってる君を応援したいと、心から思う。本当なんだ。反面、それがプレッシャーになって、必死に無視してきた心のどこかを容赦なくぶった斬っていく。それでも君には頑張ってほしい。幸せになってほしい。報われてほしい。本当なんだ。本当だ。

するべき事は分かっている。抜け出し方も分かっている。それなのに重い腰は一向に上がらなくて、足元はどんどんぬかるみ沈んで、それでも生きていたいなんて思ってしまって。助けてほしいなんて言えない。救ってほしいなんて言えない。ただ許してほしい。

いいなと思ったら応援しよう!