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「破・地獄」が映し出す今の香港

香港で大きな反響を呼んでいる映画「破・地獄」(The Last Dance)。公開からわずか15日で興行収入8,000万香港ドルを突破し、観客動員数も100万人を超える記録的なヒットとなっています。日本でも今月「香港映画祭2024」で上映されたようです。

アンセルム・チャン監督がメガホンを取り、ダヨ・ウォン(黄子華)、マイケル・ホイ(許冠文)、ミシェル・ワイ(衛詩雅)らが出演するこの作品は、歴代香港映画の興行収入ランキングでもすでに第5位にランクインしています。

映画を観た感想をお伝えしたいと思いますが、以下には物語の重要な展開に関する記述が含まれています。未見の方で、ネタバレを避けたい方は、ここで読むのをお止めください。


昨日、平日昼過ぎの上映を観てきました。小さめの映画館でしたが、半分以上の座席が埋まっていました。ただし、私を含めて観客の年齢層はかなり高めでした。

物語の重層性

コロナで食い詰めた結婚プランナーのDominic(黄子華)が葬儀屋に転職し、成長していく姿を軸に物語は展開します。しかし、それは表層的なストーリーに過ぎません。道教の「破・地獄」という儀式を執り行う老道士・文哥(許冠文)とその家族の物語、そして香港という都市が抱える伝統と現代の葛藤が、深い層として描かれています。

知らなかった香港

私は30年以上香港に住んでいますが、この映画で描かれる「破・地獄」の儀式を実際に見たことがありませんでした。隣で観ていた妻に聞くと、彼女は何度か見たことがあるそうです。この経験の違いは、同じ香港に住んでいても、私たちがそれぞれ異なる香港を体験している証かもしれません。

香港で最も有名な道教の聖地と言えば、黄大仙祠でしょう。日本からの観光客でさえ、お御籤を引いたり占いをしてもらったりと、必須の観光スポットとして知られています。実際、香港在住者なら誰もが知っているこの場所には、新年の参拝や健康祈願など、年間を通じて多くの人々が訪れます。

興味深いのは、この黄大仙祠が主として道教のお寺でありながら、仏教や儒教の要素も同時に祀られているという点です。この三教共存は、香港における道教の在り方を象徴しているのかもしれません。形式的な宗教の境界線を超えて、人々の日常生活に深く根付いているのです。

香港人の気質

主人公のDominicを見ていると、私が長年付き合ってきた多くの香港人男性の姿と重なって見えました。特に印象的なのは、彼らに共通する自然な思いやりの心です。

例えば、食事の際の何気ない振る舞い。日本人なら「どうぞお先に」と言葉で遠慮するところを、香港の男性たちは迷いなく大皿から周囲の人に料理を取り分けていきます。これは形式的な礼儀というより、完全に自然な行動として身についているように見えます。

仕事の場面でも同じです。仲間のメンツを潰すような言動は決してせず、むしろ周囲の人を立てることを常に心がけている。そんな香港人の気質が、Dominicの人物像にも確かに表れていて、長年の友人たちの姿と重なって見えました。

この「控えめに」ではなく「行動で示す」という特質は、香港という都市で生きる人々の知恵なのかもしれません。

感動的な物語の展開

当初、生活のために始めた葬儀の仕事でしたが、Dominicは遺族たちと向き合う中で徐々に変化していきます。特に印象的だったのは、幼い息子を亡くした母親とのエピソード。遺体をそのまま保存したいという母親の願いに、Dominicは深い共感を持って応えます。

この判断に対し、文哥は魂が天国へ行けなくなると最初は反対します。しかし、遺族の気持ちに寄り添うDominicの姿勢に心を動かされ、葬儀とは死者のためだけでなく、残された人々のためでもあるという新たな気づきを得ていきます。

そして物語は感動的なクライマックスを迎えます。文哥の葬儀における「破・地獄」の儀式で、道教の伝統では許されないはずの女性による儀式を、敢えて文玥(衛詩雅)に執り行わせる場面。それに反発する周囲を尻目に、毅然と儀式を続けるDominicの姿。離れ離れになっていた兄が「忘れたところは俺が助けてやる」と加わるラストシーン。彼女の「玥」という名前に込められた意味が、父娘の誤解を解いていく展開には、思わず涙が溢れました。

現代香港のメタファー

この映画は、単なる葬儀社の物語を超えて、今の香港が直面している課題を象徴的に描いているようにも感じられます。伝統と革新、世代間の価値観の違い、そして何より、変化の中でも失わないものの存在。

黄大仙祠のような場所に今も多くの人が訪れ、道教、仏教、儒教が共存している香港。その多様性を受け入れる懐の深さこそが、香港の魅力なのかもしれません。

さらに、この作品にはコロナ禍を経験した私たちへのメッセージも込められているように思えます。多くの人が亡くなり、しかし満足なお葬式すら執り行えなかったあの数年間。その経験を経て、ようやく日常を取り戻しつつある今だからこそ、監督は人々の死生観や人と人とのつながりについて、より深い思いを込めて描くことができたのではないでしょうか。

映画としては少し長めではありましたが、それを補って余りある深い余韻を残してくれました。

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