文学の呼び水として。
このあいだ、一旦本棚に落ち着いていた未読の本をもう一度開いてみた。
今さらながら「文学」という分野に興味を持つようになったここ最近、ふと、もしかしたらこれまで私は「文学的」に本を読んだことがなかったんじゃないか、と思ったのだ。
有名な日本文学作品にはもちろん人並みに手を出したことはある。でも話の内容に興味がないことが少なくなく、そういう場合はパラパラとページを飛ばして読み終えるようにしていた。なんなら好きでなければ途中でやめても全く構わないというルールを掲げながらいつも本に向かっていた。
文学好きの人からすれば、てんでおかしい話かもしれないが、私にとっては、いや私にとってもこの「文学的に」という言葉が、今さらながらに目からウロコの示唆だったのだ。決して衝撃的なというわけではなく、むしろジワッと耳に残る囁きのように。
私はnoteを始める前にも10年くらいアメブロをやっていて、自他ともに認める書き物好きだったのに、なんと文学という分野を全く知らなかったということになる。
今まで手に取ってきた日本文学にあまりにも理解がなかったということがある意味不思議すぎて、もしかしたらこれはただのヒドイ物忘れでは…という不安も一瞬よぎったが、たとえそうだとしてもここで落ちたウロコは大きかったようだ。
それならば、と、前に買ってあったジェーン・オースティンの「高慢と偏見」をもう一度読んでみようと思いたち、本棚から取り出してみたというわけである。
いつものように最初のページをサラサラと読む。やっぱり最初の印象とさほど変わりない。いかんいかん。私は今一度目からウロコを振り落として、もはやストーリーではなくブンガクテキな表現を拾いながら読んでみた。
するとどうだろう。
「ほ〜」
とでも言いたくなるような古典的とは言わずも日本語の古い表現がそこら中に使われているではないですか。
一つ例に上げると、おしゃべりで教養のない夫人と地位があり辛辣なジョークが好きな英国夫の間で交わされていた会話の中で、こんな表現が使われていた。
(夫)「べつに。だが、おまえが話したいんなら聞いてもかまわんよ」
呼び水はこれで十分。
(夫人)「もちろんあなたもちゃんと知っとかなきゃだめ。ロング夫人の情報によると…」
訳者はジェーン・オースティンの長編六作品を個人全訳したという中野康司氏。
私はここに「呼び水」という言葉を持ってきた「文学的」な一文にやられた。
そこから数日、次々に出てくる伝統的な表現に惚れ惚れとしていたところ、ちょうど私の誕生日があって、「高慢と偏見」を読んでいたのを見た旦那が、英語版をプレゼントしてくれた
早速見てみる。
呼び水の一文はこうだった。
"This was invitation enough."
原文を手にしながらも私は思わず日本語に軍配を上げてしまった (もしかすると英語が改訂されている可能性もなきにしもあらずだが)。
ここからはぐいぐいとこのストーリーにも味わい深く引き込まれていったのは言うまでもない。ジェーン・オースティンは文学の井戸に使うための呼び水としては王道過ぎたかも知れないが、これから私がその井戸からどんだけ水を汲むのか楽しみになってきた。
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