『GO』は存在証明の曲である from 『Butterflies』BUMP OF CHICKEN
はじめに
来る2024年9月、BUMP OF CHICKENのアルバム『Iris』が放たれる。
それを記念し、アルバム『Butterflies』に関する計三回の連作記事を企画、そのうちの二作を書き上げた。しかし、第三回は過去二回と比べても難解で複雑である。そのため、論点整理を兼ねて、アルバムを一曲毎に見ていく予定である(テーマに合わない曲もあるのでそれについては取り上げない)。全編を通して、何か見えてくるはずである。
今回は、『Butterflies』の一曲目『GO』を取り上げる。
本論
冒頭
曲の冒頭の三行目。学生時代の記憶だろうか。「遠くで響くトランペット」が、職員室で叱られている、永遠に感じるあの場面をうまく表現している。主人公の精神状態を表していると言えるだろう。
変化
さて、ここから深堀りしていくのだが、この曲は大まかに前半と後半で主人公の精神状態に変化が見られるような構造になっている。
前半と後半での歌詞の構造を検討することで、この曲を通して、主人公に訪れた変化について考えようと思う。
前半
後半
曲の冒頭と、曲の最後付近の歌詞を引用した。後半の「○○」部分は、実際には歌詞がない。一方で、前半では、主人公の「曖昧さ」を示す表現が並ぶ。つまり、主人公の曖昧さが、後半では消えているように見えるのである。「どこに行くべきか」というゴール設定に迷いがなくなり、ぶつかることは、ほとんどなくなっているし、歩くのが下手ではなくなっている。
しかし、ここで疑問が浮かぶ。
何かが変化したり、何かが解ったりしたわけではない、とはどういう意味だろうか。下手ではない、というレベルだとしても十分な変化であるし、ゴールも明確になっている。
しかし、このことについては、一旦見解を保留にしておく。
涙
続いての前半・後半を比較する対象であるが、以下の歌詞を見てみよう。
これに続く歌詞が以下である。
泣く→無数の煌めき→宝石→星空 という手順を見てわかると思う。それは「涙」である。
心が「宝石」(= 涙)を生み、それを高く浮かべて名前を付けた(=星)と語る。ここで、ネガティブな記憶も輝く星になる、ということが示唆されている。
この箇所の意味が解ると、同じアルバムに収録されている『宝石になった日』にも違った印象が付与されそうだ。
涙は、決してネガティブなだけではないのである。
改めて、引用する。
前半…泣き
後半…泣き笑い
前半では、笑いたい、とは言っているが、比重は泣きにある。
後半では、涙とともに笑った、とある。すなわち、泣き笑いになっている。
目的・理由
先ほど、ゴール設定が明確になった、と書いた。では、「何を目的に走ったのか、何を理由として走ったのか」。以下引用する。
皆が走る理由は、サーカスが来るからである。しかし、主人公はチケットを持っていないのに、走りたい。いや、もう走り始めていた。
どうして?
説明できる言葉に直ってたまるかよ。「とにかく、走るんだよ!」ということであろう。つまり、冒頭では曖昧だった行き先が、「サーカス場」という明確なゴール(=目的地)に変わっているのである(※以下、「行き先」は「目的地」あるいは「ゴール」と表記する)。主人公はチケットを持っていないにも係わらず、である。なぜそこまでするのだろうか。
それは、「思いをひとりにしない」ためだからである。しかし、説明できる言葉に直りたくない、のではなかったか。ただ、こう考えることができるのではないだろうか。
つまり、走り出した理由は説明できないが、次第に理由が明確になってきた、ということであろう。ゴールなんて設定しなくても、走り出してしまえば、ゴールは、理由は、目的は、明確になっていく可能性があるのだ。とはいえ、理由が明確になるかどうかはマストではない。走り出すことそれ自体が目的だからである。
だからこそ、チケットを持ってなかろうが、目的地についたところで得たものが何もなかろうが、大した問題ではない。
私が思うに、これが「何かが変わったわけじゃない」「何かが解ったわけじゃない」という歌詞の意味である。
歩き方・体・傷
さて、次は歩き方や体の傷の状態について、前半と後半で構成を確認してみよう。前半は以下のようになる。
前半では、「どこに行くべきか曖昧」という言葉通り、行く当てもなく歩いていることがわかる。そのため、障害物にぶつかってばかりいるので傷だらけである。しかし、後半では
となっている。
ここでは逆に、ゴールが明確だからこそ、動く障害物にぶつかることもあるだろう。そのため体が傷だらけになっているのだが、今や、その傷は、かすり傷・擦りむき傷程度に感じている。本気ではなかったときは痛みのほうが大きかったが、本気になった今や、痛みは大した問題ではない。体が本気で応えてくれるなら、擦りむく程度は大したことではないのである。
存在証明~GO~
とても素晴らしい日になるだろう。叱られても、チケットは持っていなくても、走った意味はなくても。チケットを持つ未来は選べなかったが、走ること自体は選ぶことができる。ここまで繋いだ足跡、つまり自分の過去が、自分が歩いてきた(走ってきた)という軌跡が、後から自分自身を鼓舞するのである。
しかしここで、この曲への理解を困難にしている歌詞を以下、引用する。
これまで、「変化」を見てきたのではないか。自分の歩き方が変わり、自分の行先が明確になったのではないか。
この歌詞について私は、自分を取り巻く世界そのものが変わったわけではない、という理解をしている。自分自身は生き方がいくらか変わったかもしれないが、それが直ちに世界を変えるわけではない。自分以外のことが何か明確になるわけではない。
何かを得るために目的地に向かうのではなく、目的地に向かって走り出すこと自体が目的なのである。もう少し意味のある事を言うとするならば、ここで走り出す、ということが、自分の存在証明となる、ということである。
もう一つ、理解を困難にしている歌詞があるので引用する。
この一節は、直前に見た「存在証明」というワードと関連させて考えることができる。「証明」というと、数学の記述式問題や理科の実験(による証明)、本人確認で「身分証明書」を見せる行為などが思い出されると思う。
すなはち「○○である」ことが「真」であることを論理的に説明する、ということが「証明」の一般的な意味である。
しかし、「自分の存在証明」は一般的な証明とは異なるものである。矛盾しているようであるが、論理的に説明する、ということによっては存在証明は「出来ない」のである。
証明は、確実に「真」なものから考える。それは、自分の存在を証明するために、出発点となる「確かなもの」と言い換えることもできる。しかしここで、そういう「確かなもの」は本当に存在するのかを疑い得ることになる。
例えば、自分と世界の境界の「不確かさ」(不明瞭さ)がある(以下の記事を参照)。
その中の、同アルバムに収録されている『コロニー』の歌詞とその解釈についての箇所を一部抜粋する。
これらを突き詰めると、自分の存在自体が疑い得るものである、という問いに行き着く。しかしそれは、人に論理的に説明出来る、という点においてである。
しかし、先ほどから言っているように、行為それ自体によって自らを証明するのである。物理的なリターン(地位・名誉なども含む)がないかもしれないにも係わらず、である。
おわりに
まとめに入る。曲の前半と後半での変化はこうである
・涙に対する評価
涙を拭った勇気の手←ネガティブな感情で、消すべき感情
涙と笑った最初の日←ポジティブな感情を帯びる
・傷に対する評価
ぶつかってばかり傷だらけ←障害
擦りむく程度は慣れっこ←気にならない
・目的
どこに行くべきかも曖昧・歩くのが下手 ←目的地が曖昧なのでフラフラ
???← 大事なのは、目的ではなく手段そのもの
目的があるなら、涙も笑いを帯びるし、あらゆる傷は擦りむく程度でしかない。では、目的とは?
…
主人公は走った。チケットも持っていないのに。なぜ?
それは「思いをひとりにしないように」である。目的は、走り出した後に自ずとついてくる。しかし、最後まで理由を見出せなかったとしても構わない。走り出すこと自体に意味があるのだから。そしてそれは、自分の存在証明となる。
しかし、自分の存在証明というものは、論理で出来るものではない。なぜなら、論理を突き詰めると存在証明の出来なさがより明確になるからである(自分と世界の境界さえ確定させることはできない)。
だからこそ、自らの行為によって、自らの存在を証明するのである。
GO
おわり