言語翻訳の難しさ~偉人たちの経済政策/竹中平蔵を読んで~
言語翻訳の難しさ~偉人たちの経済政策/竹中平蔵を読んで~
はじめに
竹中平蔵氏の『偉人たちの経済政策』(角川書店、2019)
を読んでいて、ある一節に強く心を惹かれた。それは「明治維新は未熟な市民革命であった」という章の冒頭部分である。
この一節を読んで、私は「おや?」という違和感を覚えた。この違和感こそが、言語翻訳の本質的な課題を考えるきっかけとなった。
言語翻訳における課題 - 具体例から
「明治維新」の翻訳問題
「明治維新」を「Meiji Restoration」と訳すことは、確かに一般的である。しかし、これを単純に「王政復古」の意味だと解釈するのは適切ではないだろう。
「維新」という言葉は、元々『詩経』に由来し、「百事一新(すべてのことが新しくなること)」を意味する。つまり、明治維新という言葉には、社会全体の改革と革新という意味が込められている。これを単に「復古」と同一視することは、この歴史的事象の本質を見誤る可能性がある。
ここで特に憤りを感じるのは、日本で作られた固有の概念を表す言葉を、いったん外国語に翻訳し、その後でその外国語訳を基に元の意味とは異なる日本語解釈を提示するという循環的な誤りである。これは単なる翻訳の問題を超えて、自国の歴史認識や文化理解にまで影響を及ぼしかねない重大な問題だ。
「明治維新」という言葉が持つ本来の意味―社会の全面的な改革と新時代の創造という意味―は、決して「復古」という一面的な解釈に還元されるべきではない。むしろ、このような安易な言い換えこそが、歴史認識を歪める原因となり得ることを警戒すべきである。
「権利」の翻訳問題
同様の問題は、"right"の翻訳としての「権利」という言葉にも見られる。「権利」という訳語は、幕末期に西周によって導入されたとされるが、これについて興味深い異論がある。
福沢諭吉は"right"を「通義」と訳すべきだと主張した。「通義」とは「義に通ずる」という意味であり、現代的に言えば「公共の福祉」に適った社会のあり方を追求するための概念である。これに対し「権利」という訳語には、個人の利益や欲望を主張するというニュアンスが強く含まれている。
この訳語の選択は、その後の日本社会における権利概念の理解と実践に大きな影響を与えたと考えられる。「報道の自由」や「言論の自由」が時として過度に主張される背景には、この翻訳の問題が潜んでいるのかもしれない。
言語翻訳の本質的な課題
現代では、翻訳アプリやAI翻訳の発達により、異なる言語間のコミュニケーションは格段に容易になった。しかし、これは本当の意味での相互理解を保証するものだろうか。
例えば、ある言語を母語とする人と、その言語を後から習得した人が会話をする場合、表面的には円滑なコミュニケーションが成立していても、言葉の持つ文化的な含意や微妙なニュアンスまでが完全に共有されているとは限らない。
翻訳とは「ある言語で表現された文章の内容を、原文に即して他の言語に移しかえること」と定義される。しかし、この「移しかえ」の過程で、どれだけの意味が保持され、どれだけが失われるのか。これは翻訳に携わる者が常に直面する根本的な問いである。
言語の本質を考える
言語は単なるコミュニケーションの道具以上のものである。それは人々の思考様式や世界観を形作り、文化や社会の基盤となる。
地球上に多種多様な言語が存在する理由は、それぞれの共同体が独自の文化や価値観を発展させてきた歴史と密接に関連している。バベルの塔の物語が示唆するように、言語の多様性は人類の根源的な特徴の一つと言えるかもしれない。
まとめ
言語翻訳の問題は、単なる言葉の置き換えの問題ではない。それは文化の翻訳であり、世界観の翻訳でもある。
「明治維新」や「権利」の例が示すように、翻訳の選択は社会の理解や実践に大きな影響を与える可能性がある。だからこそ、翻訳に携わる者には、原語と訳語の両方の文化的文脈を深く理解する努力が求められる。
技術の発展により、言語間の橋渡しは確かに容易になった。しかし、真の相互理解のためには、言語の持つ深い意味や文化的な背景への洞察が不可欠である。それは今後も、人類の重要な課題であり続けるだろう。