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神が自分に似せて人間を作った…というよりは

神が自分に似せて人間を作った…というよりは〈神〉というエネルギーの一部を使って〈ちょっぴり他のエネルギーとは隔たれたように見える方法〉で、〈魂と自我〉として区切られたエネルギーの状態が、人間なのだと思う。

ある日オレは仏像の写真を見ながらふと思った事がある。
仏像はあるエネルギーの状態に名前をつけて擬人化したものだ…という感覚が降りてくる。

仏像には大きく4種類に分けられる。上の位から〈如来、菩薩、明王、天〉だ。

〈如来〉は悟りを開いたエネルギー状態で、スピリチュアル界では、〈ワンネス、大いなる全て、オールザットイズ〉などと同じものだろう。
インドで悟りを開いた時の〈釈迦〉の姿で表現されたシンプルなパンチのお姿だ(あのパンチはすごい意味がある)
大日如来も釈迦如来も〈仏像になる時〉は全部インド生まれのシャカの顔をしている。(精神のような)エネルギー体だから、そもそも顔なんてあるわけない。
ちなみにオデコの吹きでものは、毛が丸まったもので、それがビーム光線のように伸びて全ての人間に照射されているそうだ。マジでカッコいい。

〈菩薩〉は、将来悟りを開く事が約束されたもの…という事になっているが、〈悟り〉なんていう状態は、自我如きが到底理解出来ない宇宙の世界の事で、その間にある〈かけ橋〉のようなエネルギーの事をさすのだと思う。
ちなみに〈菩薩の服装〉は、釈迦がまだ人間の自我である〈シッダールタ王子〉だった頃のもので、髪が盛ってあったり、王冠を被っていたり、ネックレスをジャラつかせて表現される。
〈大いなる全てとしての如来〉から、エネルギーの種類がザックリ分けられて〈じぞう・もんじゅ・みろく文珠〉とか、それぞれが〈つかさどるモノ〉が出来てくる。

〈明王〉になると、〈つかさどるモノ・エネルギー〉が細かくなって具体的になっていく。もちろん〈かけもち〉も全然ありだ。
不動明王は〈煩悩を焼く〉的な事を司どっていた気がする。
このエネルギーは、炎を背に剣を持つ姿で擬人化されている。

〈天〉はヒンズーやバラモンなどのインド神が取り入れられていて、如来や菩薩の守護にあたるそうで、兵士のようなバトルスーツ姿で擬人化されているものが多い。
顔が動物だったり、性別が女性だったり、より人間界に身近な姿でエネルギーが表現されている。

それで何を言いたかったのかというと、空海の描いた曼荼羅というものは、〈大いなる全て状態の如来〉を中心に、〈菩薩〉が囲み、それをまた〈明王〉が囲み…という構図をとっていて、大日如来と名付けられたエネルギーを中心に、エネルギーが分けられ、拡大していく様が描かれている…という事で、その一番先に人間があるのだという事だ。

金剛界曼荼羅は、オレたち人間が〈大いなる全て〉と呼ばれるエネルギーの光の一部だという事を図解して教えてくれている。

オレたちはそういう〈エネルギーの光〉で出来ていると分かる。

さすが空海だ。頭がいいのだろう。一枚の図でスゴい情報量を表現したもんだ。
オレならプレゼンのPDFシートが何枚あっても足りないだろう。

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