人と人とは分かり合えないのだろうか
何人かのひと、例えば友だち、に自分は誰にも分かってもらえていないような気がすると話したことがある。はっきりとその言葉を口にしてはいないかもしれないけれど、そんなニュアンスのことは言っただろう。
わたしが分かってもらえていない、と思うのは、うつ病のこととか、機能不全家庭のことが主だ。だから、あなたの支えになりたい、と言ってくれた人にはその話をする。でも少しだけ。たくさん話したら相手も辛いと思うから。そしてそれ以上に、話しているわたしの心が痛い。古傷に何度も触れる。まだ治りきっていない傷に。
そんな話をしたのは数人、でもここや他のSNSでは話すから聞いたことのある人はもっといると思うけど、そのうちの何人かには「人は分かり合えないものなんだよ」と言われた。分かってもらえるみたいな幻想を抱いてはいけない、と。
それは一面では正しいと思う。だってわたしがあなたの人生を生きることはできない。あなたとわたしの遺伝子は交換できない。だから本当の意味で、人と人とが分かりあうこと、人にわかってもらうこと、それが不可能なのだとは思う。
けれど、わたしが求めていた「分かってもらう」はそういうことではなかった。うつ病の症状のうち、わたしには倦怠感や過眠、そして不安障害の発作や、過去の家庭で起きたことから来る人間不信や社会への不安がある。それらが起きる病気や背景というのは、もちろん完全には分かっていないけれど、ある程度は解明されている。だから精神科やカウンセリングで治療しようという話になる。こういうことは、わたしの個別の話でもあり、教科書に説明されてあるような一般的な現象でもある。それを分かってくれ、ということすら、間違っているということだろうか。
確かに機能不全家庭ってどんなのだろうとか、そこで育ったらどんな大人になるのだろうとか、関係ない人は何も知らないしどうでもいいのかもしれない。けれどそれに関する研究や論文、そして当事者たちの声は今では簡単に見つけることができる。それすらも見ることなく、機能不全家庭育ちの苦しみは「人と人とは分かり合えない」の括りに入れるのだろうか。それは必死に研究をし言葉を綴ってきた研究者や当事者たちの努力を馬鹿にしていることにはならないか。
いまは合理的配慮が義務化されて、ある障害に起こる困りごと、というのが少しずつ知られていっていると期待している。それは、障害がない人にとっては全く経験のないことだし、そのうち多くの人には何も関係ない。けれど、知識として知ることはできる。どういう支援が必要なのかを知ることはできる。それが、人と人とが分かりあうこと、なのではないだろうか。
わたしはあなたではないし、あなたはわたしではない。だから本当の意味でお互いを分かりあうことはできない。けれど、言葉を尽くして、学んで、そうする中で少しどうしたらいいのか分かることは夢物語なんかではないと思う。分かり合えないね、とお互い微笑むのは、そのあとでもいいのではないだろうか。