心配されたくない

「心配しています」「大丈夫?」それらの言葉が怖い。ああ、怒られるな、と思うから。ああ、わたしを思い通りに動かしたいんだな、と思うから。

 普通、心配しているとか大丈夫、と言われたら嬉しいだろう。自分のことを気にかけてくれている。少なくともそれほど悪い気はしないと思う。

 しかしわたしはそうではない。相手が誰であっても、心配している、なんて言われたくない。

 心配だから、と言われるとき、それは必ず怒られる時かわたしを望み通りに動かしたい時だった。
 例えば、父親に怒鳴られる時、何度も心配だからとか危ないからという言葉が含まれていた。それはわたしを怒鳴るための言いがかりがほとんどだった。彼が心配していたのは、自分の都合とか自分の世間体だった。心配、と言えば何をしてもいいようだった。心配だからネット禁止。スマホ禁止。友だちと遊ぶために詳細な報告と連絡と相談、そして承諾。心配と付ければ何をやってもいいと思っているようだった。心配なら数時間怒鳴っていい、正座させて反省させて、物にあたって威嚇していい。さまざまに行動制限していい。自分の思い通りになることを望んでいい。「心配なので」と自分に言い聞かせ、そしてわたしが気に入らない行動をしたとき、心配してたのに、と怒鳴る。

 母親は怒鳴らなかった。単にたくさんの心配と不安について口にしていた。遅刻するんじゃないか、忘れ物するんじゃないか、帰り道危ないんじゃないか、その他いろいろ。わたしは父親に怒鳴られていたからか、母親の口にした心配についても自分から行動を律しなければいけないと思い込んでいた。火はまだ危ない。そう言われて料理をしなかった。これをしたら父親が怒鳴るかもしれない。そう言われたのでゲームも漫画も自らに禁じていた。どうしてもという時は祖父母の家で見て、そこ置いて帰った。

 実家を出てからも、心配だから、という言葉だけを言われた。研究室に行きたくなくて引きこもっていたら警察を呼ばれた。それからは毎日寝る前にLINEを送ることになった。監視されている、と思った。ちゃんと連絡を取れるか、失踪していないか、死んでいないか。勝手なことされては困ると言われているようなものだった。
 その数年後、鬱になって自殺未遂をした。そのあと母親は頻繁に家に来た。心配だから。これも見張りだろうと思う。顔を見ていれば何かしでかさない。

 もちろん、それなりに理解のできる心配、ではある。理由だけなら。でも結局、この心配をしているのも、それが解消されて欲しいのも親だ。でもそのために努力しないといけないのはわたし。親は心配、心配、とだけ言っておけばいい。
 そうしたらわたしは染みついた長年の習慣で親の心配を無くそうとするだろう。

 ずっと行っていないカウンセリングからのメール。心配だとかあの人も心配しているとか書かれていた。これは脅しだと思った。そのくらい、わたしにとっては不快だった。心配している。だからわたしは怒る権利がある。だからメールの返事をしろ。だからカウンセリングに来い。だからわたしの心配を解消しろ。そういうふうに受け取ってしまった。だから返事をしたくない。これは脅しだから。


 わたしの中で、心配とは脅しだ。だからこれからお前に攻撃するぞ、だからお前はこれをやれ、あれをするな。そういう意味しかない。そういう場所で育った。だから心配なんてされたくない。

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