多い方と少ない方

 人間を数種類に分けようとするとき、どうしたって数が少ない方とか、不利な方、というものが出てきてしまう。
 そんな話を、自分の経験と考えたことを元にして書いてみようと思う。自分が忘れないために。

 たとえば、数が少ない方でいうとわたしは精神疾患をもっているので、その点では数が少ない方になる。クラスメイトに同じような病気を抱えているひとは何人いるのだろう。全然知らないのだけれど、多数派ではないだろう。
 そんなクラスメイトたちと授業で精神疾患について学ぶ。主にこんな背景があって、こんなふうに理解したり共感したりサポートしたりしましょう、という内容だ。
 講義は必然的に精神疾患がないひとへ向けたものになる。もちろん数が多いのだから当たり前というか、そうしなきゃ何も進まない。だから仕方ないねと呑み込む。わたしに似た状況のひとが共感され、救われていくスライドを眺める。やっぱりもやもやする。わたしも救われたいな。
 先生は最初に精神疾患は珍しくないという話をするけれど、講義中に学生にも当てはまるひとがいるだろうということを考慮している素振りはない。理解しましょうというひとがそんな態度でいいのかなんて、嫌味のひとつも言いたくなる。
 どうして講義で紹介されるひとは治療され共感と理解をもらえ助かって、わたしはそうではないのだろう、なんて余計なことを考える。運が悪かった?良い子じゃなかった?いやいや、いつかは元気になれそうなんだから大丈夫だよ。でも今はしんどい。
 こうやって、多い方にチューニングされた講義は少ない方にとってはしんどいものになりがちだ。


 逆の視点で考えてみる。例えば性的多様性において、わたしは多い方に当てはまる。今までしっかりとした講義などを聞く機会はなかったのだけれど、もし高校時代なんかにLGBTについて、などという授業を聞いていたとしたら。たぶんわたしはこんなひともいるんだ、差別はよくない、と真面目に思ったことだろう。先生はこの中にも悩んでいるひとや困っているひとがいるかもしれないから、誰かに相談してね、とは言ったかもしれない。けれどきっと内容のほとんどは多い方向けで、理解しましょうとかおかしくないんですよとかそういったことに時間が割かれるのではないかと想像する。
 当事者は、疎外感を味わうひとや、余計なお世話だと思うひとや、逆にほっとするひとなど、色々な感想を持つことだろうと思う。しかし、もし意見を言いなさいとか感想文を書きなさいみたいなことになったとき、果たして少ない方の意見をしっかり言えるひとはどのくらいいるのだろう。先に挙げた精神疾患の例では、わたしはきっと病気がないひととしての意見を言ってしまうと思う。もちろんはっきり自分の立場を明確にできるひともいると思うけれど、多い方にチューニングされた空間に逆らうのはかなりのエネルギーが必要だ。

 人間ってどうしても、数が多い方に合わせてしまいがちだ。その方がやりやすいから。時間やお金がないとき、あるいは思考や行動のリソースが不足しているとき、まずは多い方にとなってしまう。
 規則を作るときも、ルールはひとつに決めないといけないのだから、そうなると多い方に合わせることになる。
 それに集団の中で色んなタイプのひとがいることを常に意識するとなると、そこに集中が割かれて他のことができなくなってしまうかもしれない。だから無意識に、「平均的な」ひとに合わせて行動する。


 差別は良くない、とか多様性を大事に、とか言われがちな昨今である。もちろんその正しさはよく分かる。でも口で言うほど簡単じゃない。つい少ない方のひとのことを忘れて振る舞ってしまうことがある。対応したくてもそれどころじゃないくらい沢山のものを抱えているひとだっていると思う。それに人間の想像力なんて限界があって、多様性を大事にしているつもりでも、想像の外にいるひとたちをないがしろにしてしまうことだってある。

 じゃあどうすればいいんだろう。簡単に解決する方法はないと思う。けれどちょっと考えてみる。

 まず、ルールとか規則は可能な限り多様な人を包括できるようなものにする、ということはできるかもしれない。今も少しずつルールは変わってきている。それも簡単な話じゃなくて、変わってしまったせいで零れ落ちるひとも、変わってもその中に含まれなかったひともいると思う。そんな人たちに気づいて、地道に少ない方のひとを置いてけぼりにしないルールに変えていくしかない。やっぱり全然簡単じゃない。多様性って、たくさんあるから多様なのであり、変えていくのは途方もない作業になるから。

 個人の話だと、家族や友達など小さなグループなら対応できる可能性がある。たくさん、といっても数人なら、このひとはこんなひと、とそれぞれに合った対応ができると思うからだ。逆に、せっかくの仲良しな友達や大事な家族なのに「平均的なひと」として対応してしまうなんてもったいないと思う。多い方の価値観を押し付けられずに済む場所があれば、そこは安心できる場所になるはずだ。大事なひとにはそんな場所を作っておきたい。
 学校とか会社とか、大きな集団になってしまうと一人ひとりに対応するのは難しくなっていく。だから少ない方のひとを傷つけてしまう場面はどうしても出てきてしまうと思う。それが完全に悪とは思わない。人間の能力には限界がある。それでも頭の片隅に、自分とは違う性質のひとがいるんだなって覚えておきたい。そしてそんなひとを傷つけたかも知れないな、ということも。

 少ない方になった場合にできることは、元気な時であれば穏やかにそういった対応は傷つくのでやめてほしい、ということかな。でもこれはすごく難しい。もしかしたら、親密な関係のひとには言えることというか、言っておくべきことかもしれない。少しずつ勇気を蓄えたい。でも元気がなかったり、相手に理解する気がなさそうだったり、そこまで親密ではないようなときは、頑張って口にする必要もないのかなと思う。

 にんげんって驚くくらい違っていて、考え方や感じ方から体調や能力まで、なにもかも違う。そのことを忘れがちだけれど、ちょっと傷ついたことがあるひととしては、なるだけ忘れないようにしたいと思う。そしてみんなの違いを認められたら、きっと自分の違いも大丈夫だって思える日が来るかも。


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