正直者は何を見る?
お医者さんや、心理士さんに希死念慮や自殺企図のことを話したとき。かならず、死なないでね、という空気を感じる。そうして僕は後悔する。どうして正直に話して、自分を否定される言葉をかけられるようなことをしたんだろう、って。
病気だから希死念慮があって、仕事だから死ぬことを止めないといけない、なんてことは分かっている。けれど、死にたい、死にたくないんだけど死にたいの、助けて、って言いたい。その死にたいをそうだねって受け止めて欲しい。命を助けるからね、という言葉はいらない。いまこの苦しみを、少しでいいから分かって欲しいのだ。少なくとも分かったふりをして欲しい。今まで言えなかったぶん、たくさんたくさん苦しいから死にたいのって言わせて欲しい。それを誰かに聞いて欲しい。聞いているだけでいいから。
そうじゃなきゃ前に進めないような気がする。あの日死のうかと思い始めた僕は、あの日の幼い僕は、成長しないまま死にたいを彷徨い続けているような気がする。
誰にも受け止めてもらえないと思っていたからずっと黙っていた。少し嘘つきで、無口で、少なくとも正直者ではなかった。
それからほんの少しの勇気を得て、ひとつずつ正直になれるようになってきた。助けて欲しいから。正直に話したら助けてもらえるんじゃないかなと思ったから。
それは今のところ半分正しく、半分間違っている。正直に話せてほっとしたこともあれば、死にたいなんて言わなきゃよかったと後悔することもある。それで苦しみはほんの少し軽くなって、また少し元に戻っての繰り返し。
僅かずつ、流れる水が岩を削るように少しずつ、苦しみが軽くなっていると信じていたい。だから正直者でありたい。
その結末に見えるものはなあに?