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2024年10〜11月に読んだ

無事転職できたはいいもののまじで読書の時間がない。優雅に通勤電車で読書、なんて甘いことを考えていたんだろう、まじで酔う。責めるべきは私の三半規管以外になく、朝から一生懸命都民の命を背負う運転手に非はないものの、車内が揺れるたびに運転手の顔を浮かべてしまう。しかもスキーン腺嚢胞?という病気になり、おしっこの出口に爆弾ができる体になってしまった。爆弾は形成と破裂を繰り返してる。noteを見て文フリに来てくださる方が万が一にでもいたとして、「この人のおしっこの出口には爆弾があるんだ」そんな目で見られる覚悟は微塵もない。

以下、爆弾を抱えながら読んだ本。(ほぼ転職前の10月に読んだ)


うわさのベーコン/猫田道子

かなり前にうわさだったうわさのベーコン。単行本はもう手がでない価格になってるので、中古のクイックジャパンを取り寄せて読んだ。
自意識に日々苛まれる私のような人間に大変よくしみた。こんなにもしみさせようという意図がないのにしみてくる小説は他に心当たりがないかもしれない。奇妙な敬語は絶妙なユーモアで、ストーリー自体は味気なくて結末も呆気ない。元気はめちゃくちゃ出る、まじで変な小説だった。

四十日と四十夜のメルヘン/青木淳悟

元々所持していた匿名芸術家に収録されている新潮掲載verで読了。まんまと町屋良平の文章にのせられて手を出したジュンゴのメルヘン。新潮掲載、単行本、文庫本と出すたび改稿されているのが気になって、アマゾンに張り付いてたら単行本も文庫本も手に入った。
全然わからなかった、ただ、一生ぼんやりおもしろかった。読めば読むほどわけのわからなさは拍車がかかり、それに比例して壮大さ、途轍もなくでかい世界に放り込まれる。ページを戻っても進んでも手すりがない、確かなことが一つもなくて、まじでなににもすがれない状態、ただこれが読書体験として一番面白いものなのかもしれないと思った。
山下澄人のコルバトントリを思い出す。読んでる時は少し混乱したが、読後数日経ってから、これはただシンプルな小説なんだと思ったそれと、似たように感じた。何も信じられなくなってくるんだけど全部馬鹿みたいに信じてみたら、やっぱり案外核はシンプルなんじゃないか?と思ったけどやっぱり全然わからん。まだまだすぎる〜

バリ山行/松永K三蔵

忘れた頃に順番がきたので図書館にて借り、翌日読了。序盤中盤くらい、妻鹿さんとバリするまでのそれに、ちょっと小説の遅さを感じてしまっていた。そこに小説でしか書けないことがあったかが、分からなかった。妻鹿さんのことを「この人はおかしいかもしれない」と言う波多こそが私には異常に感じられた、社会的な纏いの異様さ、そこに触れられてないことに違和感、それでいいのか感を感じた。波多は波多という人間がどういう人間なのかには気付いてない気がしてならない。しかし気付かない生き方をしてるそれが波多であると言われたらそうですかとなるけど、こちらとしては少し物足りない気がしてしまう。読み終えるまでにはほぼほぼなんのストレスもなかった。それは驚きのようなものもなかったということとイコールでもあった。←ここまでが読了当日思ったこと

こっから読了して数日後→そもそも風景描写を味わいきれない私の落ち度はかなりでかい気がしてきた。波多はどういう人間か自分で気付いていないといったが、波多は多分ちゃんと社会人なんだろう。私が勝手に読みたいものをこの小説に当てはめてしまっていたところを反省。波多の社会性は描かれるべきだったかもしれない。波多がいて、妻鹿さんもいる、それが社会であってこのバリの世界だったかもしれない。妻鹿さん側の小説を読みすぎて傾きすぎていた。私が波多を好きになれないと思えたのは、波多自身じゃなくて社会に対しての違和感嫌悪感で、波多に罪はない。

世紀の発見/磯崎憲一郎

先月に続き磯崎。いい小説。まじで。言語化できずにそのままになっていた子供の頃から度々陥る感覚、全部かかれてた気がする。読んだ場所がタリーズじゃなかったら91ページで涙出てた。磯崎は時間の長短や規模の大小を一切問わず、全てを見事なまでに平等に描くからすごい。それは実際に磯崎が平等に感じているから成せると解釈している。もうこれしかないという確信がつねにある小説、こちらは受け入れる選択肢以外ない。なんなんだろうこの説得力。あと104ページも泣いてた、タリーズじゃなかったら。タリーズでも泣けよ。

眼球達磨式/澤大知

旅先の行きの電車で読んだ。面白い。自分の確かな意志で動いていたと思っていたことがいつの間にか意志から離れてて、そもそも最初から意志はあったのかさえ怪しくなることって結構よくある。いい意味でも悪い意味でもなく人は空っぽかもしれない。澤さんが亡くなられてしまったことが無念でならない。

壁/安倍公房

不条理であることがなぜこうも面白いのだろうというのを壁を読みながら旅先で考えた。不条理な世界観に触れた時にしか味わえない、自分の奥の奥で昂揚してる感じ。こちらに予想する余地すら与えない不条理さを目の当たりにすると快楽物質が出る。読むことの幸福を直に感じる。
不条理が失敗するときはどんな時か。過剰さを帯びたときはいかにも失敗しそうだが、もしやものすごいことになり得る、あるとしたら自分で書いていて収拾がつかなくなる可能性か。でも、それを扱おうと最後まで努めた形のものが理想だったりするかも。お行儀良い不条理がいちばん不発に終わりそう、という結論に着地。

穿孔性の動物/土谷創太

江藤さんのnoteで気になった土谷さんの小説。本を忘れたのを機に軽い気持ちで通勤時間に読んだ。すごく好きな小説だった。
具体的な出来事が起こってるはずなのにどんどん世界が抽象的になっていくこの何とも言えない感覚は、地味なようでしつこく身体に残り風呂に入っても消えなかった。想像の余地が広い、その広さは読み手によってどうすることもできる。いろいろな可能性を示唆しないということの徹底により、不確かなことへの信頼が高まる。
読むきっかけになった江藤さんご自身も、小説を出すらしい!noteまじで興味深くて面白いので皆さんぜひ。

赤の他人の瓜二つ

生きる場所や時代が異なっていたとしても人間は変わらない。瓜二つの他人はいつでもどこにも存在しうる。一見別々の物事が、ひと繋がりになっているように感じた。丸腰で潜りこみ、漠然とした本質に執拗に迫っていくことで、世界が繋がっていく。こんなに綿密なのに磯崎の小説はコントロールされ過ぎてないのが凄い。
全然知らない世界なのに、自分でも驚くほど優しい気持ちでその世界や人物のことを思ってるという、この読後感。どう絞り出しても日常で関わる人には出せない優しさ、私にそんな感情があったのかと。人間が出てくる小説しか結局読まないし、私は私が思うほど人間嫌いじゃないのかもしれない。

自我があるから日常では他人でしかないのだけど、雑なことを言うと角度を工夫すれば皆瓜二つになり得るみたいなことも思った。皆違うのは分かってる一方で皆同じだなというふうにもときたま思う。それをこの小説でも思った、意図してない平等な目線が感じられたとき優しさが引き出されるのかもな。

砂漠ダンス/山下澄人

砂漠に行ってきた。いろいろ迷ったら今後砂漠ダンスを読もうと思ったけど、もう今後同じようなことで迷うことはなさそうだとも思った。ありがとう山下澄人。かきたいものをかきたい順番でかきたいときにかく、それしかいらないと確信した。真実がどうとか辻褄がどうとかどうだってよい。くだらんことを考えるなと。本の帯にも、考えるな感じろと、英語で書かれていた。解説・保坂和志の言葉。

独壇場/福田節郎

福田節郎の最新小説、独壇場。どうでもいい至極個人的な出来事を細かく掘り下げられた時の、この妙な面白さは一体なんなんだろう。面白いけどどうでもいい、どうでもいいけど面白い、どうでもいいから面白いのか。泌尿器科で読んで笑ってしまった。尿出口の爆弾が破裂すると思ったけどしなかった。
福田小説の登場人物はみんなちょっと口が悪くて可愛い。みんなそれぞれただその時を生きてるって感じの、飾り気ない生命力にちょっとぐっとくる。こういう小説って他にない、福田節郎の小説は何にも似てない。

警告してやる声が要る/池谷和浩

残像が残る文章だった。散歩のくだりとか「間違えた一工夫」とかいちいち面白い。緻密とユーモアの共存がめっちゃ好き。あと「有給休暇をとる夫」、池谷小説には既存池谷小説が至るところに散らばってる。あとは池谷小説自体、散歩そのものだとも思った。景色が読むことでつながっていくというのがまさに散歩のときのそれ、つまり私も散歩をした、小説読んで散歩そのものをした気になった。←ここまで読了当日

読了翌日ここから→起きたてに池谷小説を考える。昨日「緻密」と表現した部分、緻密なのはあくまでも言語感覚とかバランス感覚であって、物語自体は自ら起き上がっている。昨日「平穏」と思っていた部分、今朝考えたらあれは不穏だったかもと思い直し、だとしたら終始不穏と平穏を彷徨い続けていたのかもしれない。誤読という概念の野暮さ、景色に対しての感じ方はそれぞれでどんな見方もできるししていいし、自分が見方を変えればまた違った角度からの景色がある。読書の自由さを知った上で、その自由をまたさらに乗り越えてくる感じがあった。

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