東京大学2005年国語第4問 『背・背なか・背後』小池昌代
東大国語第4問にときどきあらわれる、なかなか共感できない文章。
冒頭から、「待ち合わせ場所にすでに相手が到着していて、しかもそのひとが後ろ向きに立っていたような場合」、「そのままわたしが行きすぎれば、そのひととわたしは永遠に交わらないまま、これを最後に別れてしまうかもしれない」とまで思いつめ、その仮定のもとではあるが、「待ち合わせの約束を、 一方的に破棄するのだから、これは裏切りだ」とまで罪悪感を抱くと述べている。
さらに、「名前を呼ばずに、例えば、あのーお待たせしましたとか、小池でーす、こんにちは、とか、そういう類の言葉を投げかけて、そのひとが確実に振り向くかどうか。わたしにはほとんど自信がない」とも言う。
「同感だ」「私にも同じ経験がある」という人はいいが、そうでない人(私も含め)にとっては、著者の述べていることを一つひとつたどり、解答をこしらえていくしかない。
(一)「ヒトの無防備な背中を前にすると、なぜか言葉を失ってしまう」(傍線部ア)とあるが、「無防備な背中」とはどういうことか、説明せよ。
第7段落には「背中は、そのひとの無意識が、あふれているように感じられる場所である」とある。だから、「誰かの後ろ姿を見る」とき、「後ろめたい感じを覚えることもある」のだ。
一方で、第8段落にあるように、背後は「自分の視線がまったく届かない」のであり、「そのひとだけを、唯一、排除して広がっている」。また、第18段落には「背後は死角である」ともある。
以上から、「当人だけを排除する死角である背後にいる他者は、背中にその人の無意識が見えるように感じられ、後ろめたさを覚えることもあるということ。」(65字)という解答例ができる。
(二)「背後を思うとき、自分が、がらんどうの頭蓋骨になったような気がする」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
背後は「自分の視線がまったく届かない」うえ、第9段落にあるように、「ひとは自分の背後の世界で、何が起きているのか、知り得ない」。また、本来は、第11段落にあるように、「意識が及ぶのは、常に現前の世界」なのだが、「目を開けて、背後を考えるのは、開いている目を、ただの『穴』とすることに他ならない」という。目がただの穴になるので、「その穴のなかを、虚しい風が通り抜けていく」のだ。
目がただの穴になる理由を推測するならば、知覚し得ない背後の世界で起きていることを知覚しようとすると、その結果として、本来なら現前の世界に及ぶはずの意識が前方に十分に及ばなくなり、結果的に、あたかも視覚を含むすべての知覚を失ったような状態になるからだと考えられる。
以上をまとめると、「知覚し得ない背後に意識を集中させると、本来見えるはずの正面に対する意識が削がれる結果、まるで全ての知覚を失ったようになるということ。」(66字)という解答例ができる。
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